たまゆらの秘密 ②阿蘇高天原

幣立神社(現・幣立神宮)の宮司家に長男として生まれた春木茂(のちに秀映と改名)は、海軍兵学校や高等文官試験を受験するなど政界への関心が強い人物であったが、宮司の父、さらに跡目であった弟の死により、1934年に幣立神社の宮司職を継ぐこととなった。
秀映はただちに郷社の社格にあった幣立神社の格上げ運動に取りかかり、井沢モト、成田とう、布田トミ等、九州で名の知られた霊能者を次々と同社へ招聘した。その傍らで『中外日報』への寄稿やパンフレット『天業の恢弘と幣立神宮』(1938)出版などの文壇活動を精力的に行い、同社の知名度を近隣の高千穂神社らと比肩させるべく権威付けを図った。その協力者の一人でもあった吾郷清彦は、同社編『阿蘇高天原』(1957)に寄稿した文章のなかで、秀映の孤軍奮闘ぶりをやや突きはなした調子で記録している。

 

秀映は、のちに確立する「幣立社神話」のアイデアを霊能者たちの示唆のほか、当時すでに世に知られて信奉者を集めていた古史古伝文書、下っては60年代以降にマスメディアと新新宗教の手で一般に流布したオカルティズム言説からも敏感に摂取していたと考えられる。
例えば、同社の社宝とされた火の玉・水の玉、五色神面には、宮下文書・竹内文書などにみられる渡来ユダヤ人説や五大人種説に直接想をとった由来譚が附与された。
また、秀映の著作に断片的にみられる宇宙人や竜人文明への言及からは、記紀や上記(ウエツフミ)の記述(トヨタマヒメ・タマヨリヒメ・ウガヤ王朝、天磐船等)と欧米の神秘学やSF作家の手になる爬虫類神話論とを結び付けて説いた岡田光玉(真光開祖)らの孫引き的な影響を見て取れる。
より簡潔に語るなら、岡田や春木を含む宗教家たちをまとめて、60―70年代マスメディアに展開したオカルト言説圏の周縁、あるいは便乗者として処理することができるだろう。

これらのオカルト言説を咀嚼吸収する過程で、幣立神社独自の古代史解釈を説く複数の〈社伝〉が戦前戦後を通じて編纂され、同社の柱となっていった。

 

秀映の主著『青年地球誕生』(1973刊・1992再版、1999抄録・改編版)に掲載された『高天原縁起上巻』は、天照大神の幣立宮遷座を語る『幣立宮縁起書』の後に置かれている。その内容は、記紀のあらすじ(国産みから天孫降臨まで)に同社近辺の地名を盛り込む形で、大門能主神・天御中主神天照大神がいずれも幣立宮に鎮座するに至ったとする神話に仕立てたものである。内容的には、宮司就任に前後して『幣立宮縁起書』を「発見」・発表した直後(1930年代後半)に、これを増広する形で書かれたものと考えられる。
「江戸時代に書写されたものを神代文字で解読した」と強引な曰く付けがなされ内容も簡素な『幣立宮縁起書』とは異なり、『高天原縁起』は同社所伝の経緯が何も述べられていないことや「日本政道」「国体之曇」などの言葉遣いからみても秀映の手になるものなのが明らかな代物だが、テキストが漢文で書かれているという一事によって若干の幻惑効果を発揮していたようだ。例えば、古史古伝ウォッチャーとして知られる原田実は著書『偽書が描いた日本の超古代史』(2018)で「実際に平安時代に書かれたとは考えにくい」とするに留めており、他の古史古伝文書と同時期のもの(江戸時代中期~昭和初期)という漠然とした把握をしていたようだ。

 

高天原縁起』冒頭では「神代七世」「天神七代」「地神五代」として聖書のように系図が置かれ、記紀神世七代からオオトノヂツノグヒを格上げする形で「神代七世」に配置し、オオトノヂ=大門能主大神(後の大宇宙大和神)を宇宙最高神としている。『先代旧事本紀』『上記』を嚆矢とする古史古伝のバリエーションに属しつつ、それなりに独自の神学を盛り込んだ内容といえる。
なお、『高天原縁起』には中下巻が焚書され逸失したという設定も附記されてあり、秀映としては書き継ぐことも考えていたようだが、以後の展開は「口碑『幣立神話』」という形式でまったく自由に陳述され、これを自在に運用することで前述の『青年地球誕生』がものされることになった。

時は1970年代前半、吾郷清彦や鈴木貞一の宮下文書本を中心として、出版界は第二次古史古伝ブームというべき状況にあり、まさに時流に乗った刊行ではあった。