たまゆらの秘密 ⑥町おこし

熊本大名誉教授・尚絅短大学長を務めた著名な病理学者であった武内忠男は、熊本大の水俣病研究班を牽引し、1959年に水俣病有機水銀に起因することを立証したことで知られる。72~74年には水俣病認定委員会の会長として被害認定基準の策定にあたったが、73年に天草地方の症例疑いを「第三水俣病」として提起し、環境庁の専門家会議がこれを否定したことから委員会を辞任し、熊本大研究班も解散に追い込まれた。77年に国が定めた認定基準では、感覚障害・視野狭窄・運動失調などの複数の組み合わせを要件とする厳格化がなされ、紛争が続くことになった。
後年、熊本大名誉教授で生命体画像工学を専門とする入口紀男は、独自の文献調査に基づいて『聖バーソロミュー病院1865年の症候群』(2016)を著した。同著では、水銀中毒症状とされるものの病理学的位置付けについて武内に誤解があったとし、それが(武内自身が強く批判したところの)認定条件の不当な厳格化につながったと批判している。また、当座の仮称として武内が提案したとされる症例名「水俣病」が地域差別につながったとして、同病名の使用をやめるよう呼びかけている。

 

武内忠男の子息である武内一忠は、熊本市神水苑ホテル(現・マリエール神水苑)常務として勤務する傍ら、熊本ペトログラフ協会(後に熊本先史岩石文化研究会)代表として活動し、吉田信啓の著書にも度々登場した。
1996年の『尚絅短大紀要』には、一忠・忠男の連名で熊本・押戸山の巨石遺構と称されるものに関する研究論文が掲載されており、忠男は「熊本先史岩石文化研究会 名誉会長」に就いていたことがわかる。

同論文は、ペトログラフの図像分析等から巨石遺構を古代シュメール文明の影響下にあるものと比定する、吉田の見解と軌を一にする内容であった。同遺構は後にこの主張を丸呑みする形で観光地化された。

入口紀男はこれらに対してもWEB上で検証・批判を公にしている。
入口が武内忠男の発言をサーチする過程で押戸山巨石の件を知り得たのか、あるいは武内らの研究を町興しに利用する動きがそれ自体喧しかったのかは定かではないが、入口が武内父子の動向に相当の警戒をもっていたらしいことは市民団体「熊本アイルランド協会」のブログに武内一忠が寄稿して自説を展開した際、これに直ちにコメントを付して自身のページへと誘導していることからも伺える。

 

他方で、入口による同件への批判それ自体は非常に抑制的ともいえるものであったことも注目に値する。

巨石表面の筋目模様が数年で変化していること、落雷などによる着磁が普通に発生することなどを挙げてペトログラフの史料性に疑問を呈する一方で、「シュメル人、アーリア人ケルト人、ヘブライ人、ペルシャ人などが渡来したことを否定できない」等と、慎重をこえて譲歩的に思えることを述べたりもしている。

 

入口は市民活動「あまてらすプロジェクト」を展開する運動家の顔を持ち、自身のサイトでは行動指針として「尊王」「護憲」「核エネルギーの放棄」を掲げている。これらは実は批判対象たる幣立~吉田~武内ラインと遠くないセットとも思える。春木秀映は1946年の朝日新聞への投書で戦争放棄に賛意を表するなど、政治的には平和主義でもあるし、現宮司の春木伸哉も「条文は今のままでもよい」など独自の自主憲法論を口にするなどしている。
幣立神宮に限らず、古史古伝運動が国家神道に対する神社神道内部からの反発・反省・新正統主義の側面を持っていることは、そのサブカルチャー的側面と並んで理解される必要がある。

近代九州において、土地の神話と公害や疾病の記憶が重ね合わさるところには様々に入り組んだ捻れとも取れる知的位相が生じた。それはかつて日本最後の内戦から日本初の心霊写真を、不知火の街から千里眼能力者を生み出したように、種々の霊的ボルシェビズムを発火させるパッションでもあった。