死の病跡学 ③ルーシュとアスコキンは両立しないか

生命の本質が精神であり、精神が中心への志向であることにおいて、生命存在は存在論的に一なるものを構成する

という神秘家の構想に意味があるならば、月の食料とは何であるか。

 

・月は業熟体。月の界面は生命が満ちる。地球上は天、身体は天の容器、個体生命は月より突出したものである。

・従って、個体の死とは生命が月に退隠することである。このとき、個体生命で満ちた地球空間が反射的に波動して孔に落ち込み、退隠する生命を震えとして表象する。即ちアスコキンの実体は反動である。

グルジェフの言う絶え間ない自己想起とは当にこの反動に同化することで、意識を地球上に保持開顕する、自罰的・美的な試みと言える。

・ルーシュは表象ではない。変換され精製された振動エネルギーであり、流通が可能である。意識はその「一般化された」精製過程における反動強化プロセスと解釈される。即ち個体意識とは全て「召喚されたもの」にすぎない。

・モンローは、その探究の行き掛かり上、鹿爪らしくも自分で自分の責任を取ろうとする方向に誘導されていった。置かれた場所で自らの強化再生に着手する機械と自らを化成することで、循環論的に報恩を果たす、という、至って一神教的な思考構成が支配する。

・この2つが似て非なることを見るのはたやすいが、どちらが思想的に洗練されていると言えるか。無論ルーシュなのだが、そうであれば、我々はそのパラダイムからどの様に自由ではないのか。あるいは、それを有神教ではなく一神教と評するときの、その双方が真に制約とするのはいかなる事態か。