九鬼周造から津田真一 ③

織田和明

織田和明の著書『九鬼周造の人間論 破綻と再建』(2025) は、循環論的に議論を突き詰めた伊藤とは異なる方法論…批評的態度…をもって九鬼思想の困難を解決する。

織田は、「ポンティニー講演」と「形而上学的時間」の両議論を比較し、そこに2つの明確な変化がみられると主張する。

(1)意志の位置付けの消去

二つの論文の第一の違いは、「形而上学的時間」では、「時間の観念と東洋における時間の反復」のように時間が個人の意志に帰属してはいないことである。 …
大宇宙年が個人の意志によって終結・生産されるという主張はこの論文では述べられない。「時間の絶対的根拠」を課題設定にした「形而上学的時間」であるが、時間の期限への問はこの論文では回避され、全てが潜性的な無限の水準で展開されている。 …
永遠回帰論は現実の世界の起源の問いよりもさらに一回り大きな世界全体を支える想像的な原理と考えるべきだろう。
織田和明『九鬼周造の人間論』(2025)

最後の引用文は伊藤著における議論「二重の多の二重の縮退」への接続をなおも可能にするものではある。だが織田は、「時間の反復による永遠の現在の成立」という九鬼の議論については、経験的な意義を持ち得る時間論としては、実質的に破綻しているものとして扱っている。

(2)オスカー・ベッカーの存在論への依存
では、九鬼の時間論をどのようなものとして読み込み直すのか。そこで織田は「形而上学的時間」におけるベッカーのパラ実在(準実存)論への言及に注目し、芸術的時間の哲学としての読み替えを図る。

九鬼はこのベッカーのパラ実存カテゴリーとしての被担性を自身の回帰的時間論と同一のものと考える。つまり、彼は「形而上学的時間」では永遠回帰の原理を、一人の人間が生み出したものではなく、我々を担う「運命」としてのマクロコスモス(=大宇宙)としている …
つまり人間が神のような全宇宙の生産者であると考えるのではなく、永遠回帰する大宇宙という運命に我々は担われているという想像を人間がしているという立場に切り替えたのである。

上記の論述が、九鬼はともかくベッカーの議論への接続として妥当であるかはやや微妙に思われるが(ベッカーにおけるパラ実存は想像に起点をおく原理ではなく、イデアの自己開展としての自然に由来する「現前存在」を取扱う原理の位置付けにあるから…)、織田の読みは我々の解釈に一つの出口を提供するものだ。

松本直樹

松本直樹「くり返す時・消えゆく時 西田幾多郎九鬼周造、M・ハイデガーの時間論」(2020)は、九鬼と西田及びハイデガーの時間論を三点測量で比較した貴重な論考だ。
松本は、伊藤や織田の著書とはまた異なるアプローチ…論理構成ではなくその動機ないし帰結に着目する…を用いて議論に接近するという方法で、三者の議論の性格をキー概念ごとに比較し、九鬼の時間論(さらには文学論)への根底的な批判を試みている。

(1)垂直的脱自。三者はいずれも現在の垂直的構造を意識しているが、その動機が根本的に異なるという指摘。

ハイデガーによれば、死は水平に広がる時系列の、どの時点にも無制約に出現しうる唯一の可能性であるのだが、それはたんに、死が水平方向の直線上を自在に行ったり来たりすることができるということではなく、死がある意味、水平な時間の広がりのうちにはないような、むしろ、その広がりを垂直に「包み」つつ消去するような―ハイデガー自身の言い方では「撤回する」ような―否定性としてあることを意味する …
重要であるのは、 時間のこのような垂直の次元が、西田とハイデガーにあっては、時間そのものの不可逆性の基礎と解されていることである。
松本直樹「くり返す時・消えゆく時」(2020)

ただし、九鬼における「永遠の今」とは、単にその永遠性を寿ぐというものではなく、ある種の(イデアの自己開展に擬された)「延長された形態」を玩味しようという態度に帰結する。この点は後に松本も鋭く突いている。

(2)形相的単体性。伊藤の議論では、大宇宙年の無限の繰り返しという構成に伴い、その個別性が限りなく希薄化していく事態に対応する、いわば応急の概念装置として評価される概念だが、松本はその意義を逆方向から考察する。

偶然的・一回的な出来事を(その偶然性・一回性の実存的な重みを損なうことなく)必然化・永遠化しようとするとき、「回帰」の思想が現れる。…
要するに、九鬼の考えでは、そこではものごとが「多」として「個性」を稀薄にしていくことと、「一」として「重味」を増大させていくこととが矛盾しないような、そういう時間が回帰的時間なのである。

形相的単体性の例: Perfect Scarecrow (plastek pet) - original sin

https://www.youtube.com/watch?v=FTzLUjZxeKY

(3)回帰的時間への論理的批判。小浜や伊藤をはじめ、多くの論者が因果律同一律への一致という九鬼の論点を受け入れて議論を進めるのに対し、松本は敢えてそれをスキップし、九鬼の議論において回帰的時間を実際に可能ならしめている論拠を解体する。

大宇宙年の理論…この「仮定」を保全するためにこそ回帰的時間(時間そのもののくり返し)が想定されるのであって、このことはむしろ、九鬼が個体の同一性に関し、ライプニッツの「不可弁別即同一の原理」を厳格に踏襲していることを示す(回帰がつねに世界全体のそれとして理解されるのも、そのためであろう)。そのうえで、彼はこの原理から唯一、その「同一」が含意する「数的に一つ」という規定だけを外すのである。

九鬼はたんに、くり返しを考えるためには時間観念や同一律をこのように改変しなくてはならないと論じているだけだ、という。伊藤が二重の「多」や(物理理論などを援用して)二重の縮退という言葉で表現した事態が、限りなく根拠が希薄なものである実像が浮き彫りとなった。

(4)回帰的時間への哲学的批判。伊藤著の検討で筆者は、円環的時間の円環性を無用な仮定と述べたが、松本はその意味を、九鬼の時間論の直接的応用とされる文学論に及んで考察する。
松本は、回帰的時間で目指されるのは現在の深みへの直面が可能にする意思の働きそのものではなく、すでにその働きの「美的な享受」を構想して整えられた図式ではないか、と指摘する。

同じものがことさらに同じものとして提示され、そのような堆積がそのつど、卑俗な言い方をすれば「ちゃら」にされることで「回帰」のイメージが生み出される …
問題はむしろ、この種の詩作技術の行使や、音楽鑑賞における習慣的なふるまいが、そのような「ちゃら」感それ自体を志向しているように思われることにある。そこではすでに、 私たちの視線は、偶然的・一回的なものに端的に触れることから、それが偶然的・一回的であることそれ自体 (たとえば、 出来事の出来事「性」)を美的に享受することへと逸れてしまっているのではないだろうか。

松本はこのように述べる一方、別の論文で九鬼の「趣味的」な態度こそは人間の美的な意識状態の本質を示唆しているかもしれない、という見解を示しているが、本稿の趣旨と離れるので割愛する。


我々の理解を一旦整理する。
・九鬼によって美的な意思作用を付加された回帰的時間の思想は、一つの思想が対面すべき無や苦の濃度をそれこそ無にまで縮減したことで、思想の内容と形式にわたる二重の無意味性を呈することになった。
限りなく仮想的な観念が現実へ投影されるとき、その構想はなし崩し的に「可能的な苦の機構」を説明する原理へと転倒する。

・原始偶然を歴史の根源ではなく刻々の現在に比定したのは九鬼の工夫であったが、それはそもそも多重の間違いであっただろう。原初の意志、現法以前の意志、あるいは垂直的時間それ自体からくる意志、それらはいずれも我々の統制下にある意志ではない。
かりに「刻々のではない、永遠の現在だ」というなら、その意味を改めて問うだけだ。

オスカー・ベッカー

ここからは、ベッカーの理論に関してその美学的側面に注目した理解を試みる。
オスカー・ベッカーは、西欧の歴史的思考についてアウグスティヌスからハイデガーに至る系譜を意識して述べている。

古代世界全体は、ギリシア以前の古代東方にしても古典的古代にしても、天文学的根拠に基づいて、現象の循環を信じていた。「大いなる年」が過ぎ去るとすべてが回帰する。しかし、歴史的経緯の予測を許すような法則など天文学では成り立たないし、したがって事件の経過の繰り返しが入ってこない時に、初めて本当の時間が現れるのである。<自然-事象>からはっきり区別すべき歴史的<出来事>(Ereignisse)は、一回限りのものである。…
この還元不能の歴史性において初めて人間の存在は、その現-存在、その実存は成熟する。…
したがって我々がここで考えているのは、ヘーゲル的歴史の論理ではなく、(イデアの)実体の真理には依存しない、歴史における存在の真理である。…
歴史の余地不能性と、存在・存在者間の測りしれぬ隔たりという二つの事は、互いに相手を結論する。なぜならこの隔たりは、存在が存在者から推定されない時―つまり神託を拒否する時にのみ存在するからである。
ベッカー「プラトンイデア存在論的差異」(1963),『ピュタゴラスの現代性 数学とパラ実存』(1993)所収

ベッカーのパラ実存論の特徴は、精神と自然というシェリングの二元論を継承し、自然に由来する対象と経験…数学から芸術まで…を包括的に取扱う体系であることだ。それは直接的にはハイデガー存在論の構成を借用して概念に双対構造を持たせ、かつプラトンイデア観念の曖昧さを「存在」の鋭さに対置させて自然における「生成」の原理として取り込むという形で構想された。

イデア数(イデア弁証法的自己展開)の図 Becker「Die diairetische Erzeugung der platonischen Idealzahlen」(1929)、A・ロトマン「数理哲学論集」(2021)訳注より引用

ベッカーは、永遠に属する芸術と美的経験のはかなさの対応関係について、次のように分析している。

美しいものは、まれなもの、選り抜きのものである。それは、作品としては、「尖端を行くもの」と考えられる。
一本の道を辿って行けば自然に到達できるというわけではなく、そのためには飛躍が必要なことである。 …
美的対象は、「それ自体においては」到底「現実態」ではありえず、ただ潜勢力を持っているにすぎない。その潜在的なものが、美的体験においてはじめて現実的なものになり …
美的体験においては、「関心」は掻き立てられると同時に消されてしまう、しかも、現象的に与えられたものとして。 …
担われていることは、時間的には「現在」を意味する。と言っても、断じて通俗的時間の現在、つまり過去と未来という二つながら存在していない視界をともなった「いま」ではない。そうではなく、ただそれ自体のみで存在する、それ自体で完結し、それ自体で充分な、「永遠の現在」なのである。
「永遠の現在」は、過去にも未来にもかかわりがない。「永遠の現在」には視界はなく、「宇宙的に」それ自体の中に閉じこもっている。と言っても、「小宇宙的」というよりは、むしろ「大宇宙的」である。なぜなら、それが包含できないようなものは、一つもないからである。それは静止しているのではなく、「循環している。」(ここで、古代哲学での循環運動のことを考えていただきたい。)
「宿命的人間」は、このような「永遠に現在的」に担われている状態で生きている。
重荷という形や、不安をいとわない決断の中で捕えられるような形でではなく、まだ「通り過ぎて」はいないような形で、彼自身のものなのである。「通り過ぎて」という言葉は、彼にとっては「間抜けた言い草」である。彼は運命愛を知っている。
だが、芸術家はどうなのだろう。彼はどちらにも、つまり「宿命」の永遠の現在にも、歴史的現存在の既存的未来にも、かかわりを持っている。
イロニーの目つきは一切の上に浮かび漂い、一切を無にしてしまう。この二つの「行為」の統一は、決定的なものである。「一切の上に浮かび漂う」ものは、「永遠の現在」という時間形態を持ち、一切を「無にしてしまう」ものは、通俗的な時間の、それ自体において無である「いま」という時間形態を持つ。ただし、この「いま」の背後で、結局は、本来の(史的)時間の「瞬間」が不安、決断、「負い目のあること」(つまり、無であること)によって統一されている。
この逆説が美的なものそれ自体の逆説と同一のものであることを、指摘するのが精々である。
ベッカー『美のはかなさと芸術家の冒険性』(1929)

永遠の現在は、定義的にそれ自体で完足性を持つようなものであり、その美は死から生へのような飛躍に由来し、その享受は本質的に現象世界における興奮的・刹那性な瞬間として投射される。

永遠の現在それ自体にある種の非完了性を付託した九鬼の言説は、高橋の分析を援用するならば、次のような認知構造によって成り立っているといえる。
・「それ」が必然的に”瞬間的体験”として現象世界に投射されること。
・「それ」をふたたび享受しようとする意図(二次的な意志)を、「繰り返し」の構想による瞬間の延長それ自体によって構成すること。
つまり、九鬼の回帰的時間論の二重構造は、「美的な体験への意志から円環が生まれ、意志的体験への意志から延長が生まれる」、とまとめることができる。


ここまでの記事で取り上げた種々の議論を、あくまで理解の便宜のための仮設として、問題意識のスペクトラムと各々の志向するベクトルを考慮した見取り図によって整理することを考えてみる。
織田和明は、著作中で九鬼およびベッカーの議論に関連して、九鬼哲学全体の道行きを考慮しながら、次のような見取り図を提示している。

ベッカー理論を用いて整理された九鬼の世界把握、織田(2025)
種(現勢的無限=神話的根拠)を実体視して定式化された九鬼の世界把握、織田(2025)

いっぽうで、筆者が理解の便宜のために描こうとする哲学のスペクトラムは、次の4つの論点を考慮して構成される。
・現勢的無限・種=伊藤の相依相関的自己完結的コスモス、円環という誤った表象、解釈ベクトルの対象
・潜勢的無限・類=無意識的現前、ナラティブ、物質的延長
・解釈ベクトル(回帰・実時間)/ 享受ベクトル(延長・再生・輪廻)
同一律因果律の同視、時間的多性(業無)と空間的多性(=宇宙年の繰り返しの実体・現前)の同視、…等々を意図して構想された議論を批判し、これらを再分割する。

哲学のスペクトラム (筆者作成)
津田真一

ここで、津田真一が登場する。
仏教学者・津田真一の後期(「開放系の仏教学」を標榜した1990年以降、あるいは『アーラヤ的世界とその神』(1998)の刊行以降)の行論全体の道行きを評価するにあたって、2008年以降の津田が「哲学」を標榜し始めたことは注意が向けられるべき…そしてこれまでの筆者が見逃していたと思われる…事実である。

この解釈において、私がそれを『法華経』における救済論の根拠をなすべき神話論的設定としたところの<願成就>ということが、再び、重要な意味、敢えていうならば(私は今に至るまでこの「哲学」という言葉を自分が書いたり喋ったりすることに対しては決して用いることはなかったのですが)哲学的な意味を持ってくるのです。
津田真一『反密教学』新版(2008) 序「『法華経』・願成就の哲学」

では、その「哲学」と仏教学との間に品階の差を生ぜしめている 条件は何かと申しますと、本日のお話の内容に合わせて申しますならば、それは他ならぬシェリングの有名な「問い」、カール・ヤスパースの『シェリング』(行人社、2006年)における那須政玄教授の訳によるなら 、
「なぜそもそも或るものが存在して、なぜ無は存在しないのか」
です。 ヤスパースの言う所によるなら、「パルメニデスによって考えられ、ライプニッツによって言及された」この問いを、シェリングは意識して「哲学することの根本の問い」とし、その「意味」を「彼の人生において繰り返し問うた」のです。
津田真一「四諦・十二因縁説の存在論的構制とその背後にあるもの 仏教思想の“哲学” 的叙述の試み」(2009)

「無が存在する」という矛盾的事態をE(=explosion)とおく。これが哲学の根底にある否定的事態であると考えよう。伊藤が事物の現勢化にあたって必要であると述べた「(すくなくとも)二重の縮退」とは、この"爆発"を無限で二回"割り算"をする操作に相当する。これによって一つの決定論的な宇宙が出現する(それが永劫回帰するかどうかは今は問わない)と仮定する。しかし、決定論的宇宙が哲学的にも思想的にもほぼ無意味であることはすぐに見て取れるだろう。そこで、先ほど提示した二つのベクトルを1回の"割り算"の操作に配当し、それぞれが1自由度を有した世界描像を創出すると考える。すると、我々が九鬼から出発して描いた見取り図は次のような下三角形となる。

爆発点 (無底) を付加した解釈/享受ベクトルの図 (筆者作成)

思想における"自由度"は無根拠性、恣意性を許容し、ここに「解釈の場」が開かれる。しかし問題は"割り算"の性質についてだ。「解釈ベクトル」において、時間は歴史的事実の一通りしかない。ヘーゲルの円環とは、この歴史が自己整合的であることの要請である。
これはすなわち人間的な業が問題としては成立していない事態を意味する。宇宙が円環を成して回帰する時、すべての存在者はプラスマイナスゼロで帳尻を合わせて元の状態に復するのであるから、そこに業や苦の損得勘定はもとより成立する余地のない、無意味な観念である。
筆者が九鬼の回帰時間論において回帰それ自体が余計な仮定であると述べたのはこのようなことである。その理解の元は、津田が"円環という多分誤った表象"として述べていることにある。