九鬼周造から津田真一 追補
九鬼周造から津田真一 ⑥ - 目の光損減池 「『哲学』後史」 の追補として。
浄土教論を軸として津田博士の後期行論を整理したメモです。

1 縁起説の根拠の位置としての法(dharma)の構造(1985)『アーラヤ的世界とその神』所収
2 密教の本質(1989)
3 密教学を見直す本(1990)
4 父・言葉・運命*(1991)
5 オウム真理教について(1996)
6 法然・覚鑁との関係における親鸞(1996)
7 密教の行方(1997) (山折哲雄との対談)
8 『華厳経』「入法界品」における弥勒法界の理念とその神論的宇宙論的意味(1998)
9 不生と随喜廻向(2001)
10 『法華経』における「加持」の概念(2007)
11 科研「環境問題と仏教-環境倫理構築の仏教学的可能性とその諸問題」報告(2001) (代表・共著)
12 The Post-mahAyAnic Character of the Lotus Sutra and its Principle(2011)
13 「T&H Project」レジュメ(2004-2007)
14 如来蔵思想の本質とそのシェリング的展開(2011)
15 四諦・十二因縁説の存在論的構制とその背後にあるもの(2009)
16 小善成仏と如来の加持(2013)
17 〈終末論的実存の弁証法〉における統一としての親鸞と法然(2016)
18 密教理解の現位置(1987)『反密教学』所収
19 覚鑁の密教と浄土思想(1991)
20 興教大師覚鑁の思想(1992)
21 法然及び親鸞との連関における覚鑁(1993)
22 覚鑁の思想とその現代的意義(1993)
23 日本仏教思想史における法然の「永遠に反駁を許さぬ」存在意義について(2001)
24 薩婆若の原語とその意味(2004)
25 本覚思想の思想的実体とその制約(1998)『アーラヤ的世界とその神』所収
26 「終末論的実存の弁証法」と自然法爾(2001)
27 空念仏でいいのだ(2011)
28 『法華経』・願成就の哲学(2008)『反密教学 (新版)』所収
29 小善成仏から願成就へ(2007)
津田真一の著作リストはこちら
吉本隆明の親鸞論への批判点
津田真一は(宗祖覚鑁の思想的参照点としての関心に加えて)親鸞を日本仏教思想の最終到達点とする20世紀的偏見の批判から彼の浄土教論を開始している。彼はそうした謬見の一方の典型として非宗派の近代知識人たる鈴木大拙と吉本隆明の名前を挙げているが、吉本の親鸞論に対する直接の批判を行ってはいない。ここでは吉本のロジックと津田仏教学の対立点を簡単にメモしておく。
〈法然の仰〉が真実ならば、「親鸞がまをす旨」もまた、むなしくないと云ってよいだろうかというように、他力の時間的な移譲の連鎖が、とり上げられている。なぜならば、こういう媒介者の思想的な連鎖をたどるのでなければ、じぶんのような「愚者の信心」では〈弥陀の本願〉に到達しないからというのが、親鸞のとっている論理である。思想が、人格に時間的に負荷されて、究極に達するという考え方をとるならば、信心もまた負荷された生身の人格によって左右されるはずである。そうならば、つねに現世的な関係の世界に、信心と不信心の〈契機〉はひきもどされることになる。これは浄土真宗にとって、いいかえれば〈念仏〉と〈浄土〉とをつなげる他力思想にとって、世界を現世的な人格に制約することになり、矛盾である。すくなくとも〈宗派〉の共同性は、存在すべき根拠をもたないことになる。
吉本隆明「最後の親鸞」(1974)
吉本がその親鸞論の劈頭において描き出す「最後の親鸞」は、ある宗教的理念の破綻の認識(="迷出")を背景に、個人史的な挫折および相承の経験を根拠として、個人的スケールに縮減された信念とその安定機制を築き、自らを安心する知識人の姿である。
親鸞思想の優越は当時の通俗的宗教学にあってまったく常識的前提にすぎなかったが、それ以前に74年当時の吉本にとって仏教思想史論を描く意図はなく、68年革命の挫折をうけた周縁知識層の関心に応えるべく書かれた試論でもあった。ともかく法然にならぶ浄土教の徒たちは宗派的宗教の矛盾、救済思想の自己欺瞞にたやすく足をとられ、ひとり親鸞だけが、かつその最期へと収束する思想的解体劇において、矛盾をまぬかれるという構図をもって論考は書かれた。
法然がいつも気にして口にしたのは、無知文盲の念仏帰依者が信仰に凝りかたまって、他宗の有識僧侶たちを誹謗し、排斥してはならないという制戒である。これは〈知〉の放棄こそが専修念仏への近道だとする法然の教義と、最後には矛盾している。
吉本隆明「ある親鸞」(1976)
津田にしてみれば、矛盾は浄土教の思想に対してクリティカルではない、矛盾で済むならば事態は困難にあらず(行の実態を弁証法的に闡明する前提にすぎないから)ということになる。
津田が親鸞の思想的独自性と認める「一人の思想」は、津田においては浄土思想の解体を「紙一重」で取り結ぶ糸ではなく、「最後の親鸞」にいう「生身の人格」への思想的縮約を阿弥陀の人格神的実在という方向へと逆照射するものだ。この実在性の制約下における人格と人格の逆対応関係は、大乗仏教の空性(Lv2)を突破し〈大乗以後の仏教〉の絶対者を示唆する。その一方で、その歴史的展開は依然として覚鑁=法然による「開放系の命題」の規定、すなわち行信の弁証法の制約下にある。この実在性の観念は、その後の真宗教学においては祖師の人格と系統が告知する信の実在的制約におきかえられる。
法然が、その歴史的弁証法(末法と愚者)からすすんで自ら整備した実践体系を放棄した親鸞は、その困難を再転回するために、第三項=フィクション=無底としての絶対他力の観念規定を自ら整備する必要があった。
吉本は『最後の親鸞』の増補版で、浄土宗派の教理的課題の集成者としての親鸞像を描きなおしている。
教理とはいずれにせよ外部からはとるにたりないことで、内部にとって死活問題であるような矛盾そのものを指している。一遍ならばそんなことはどうでもいいことだったにちがいない。親鸞の特徴は、〈信〉の実践では〈非知〉に徹しながら、その〈非知〉の根拠を凝視するのに徹底的に理路にしたがった点にあった。
吉本隆明「教理上の親鸞」(1981)
同論における書きぶりには苦慮がにじんでいるが、一宗のドグマを定出し〈信〉の変形を制約しようとする親鸞の作業に、ただ追随するよりない吉本の姿がそこには見られる。あたかも隠密ぶった篤志家のように表象される親鸞の像には、前借りの負債をそっと清算するかのような後ろ暗さがともなう。津田仏教学をプルシャの生存原理がどこまでも横断するように、「和讃」(1975)にいわれた「浄土教義を存続可能なかたちに組みかえなければならない、という衝迫」に思想の語彙で落とし前をつけない状態には、吉本も彼の親鸞もとどまれなかった。
とはいえ、ときどきに「浄土宗派/浄土真宗の解体」を口にせざるをえない吉本の次のような記述からは、彼の視野もまた本来的に「最後の津田真一=Lv3の絶対者の哲学」の問題系にまで届いているとも読める。
〈有念、無念〉や〈一念、多念〉の概念がでてくる世界を、そっくり絶対〈他力〉の世界に吸収させることによって、いわばこれらの概念はそのままべつの視角から照射される。 … なぜ〈有念、無念〉や〈一念、多念〉といった対立概念が、もっともらしい形で提出されてくるのか。親鸞はそれを、倫理的な判断を惹きおこす世界に身を置くからだとかんがえた。 … だが〈選択本願〉の絶対他力の」世界に意味の次元をおけば、事態は一変する。判断の横行する世界はすべて「そらごと、たわごと、真実あること無き」世界にしかすぎなくなるからだ。
吉本隆明「ある親鸞」(1976)
津田の行論において、提示されるB世界の生の倫理がポジティブな色合いを失い、無気力やニヒリズムへの後退を果たすかにみえるのは、A世界の存在機制を「神の身体と生命」においたことが「弁証法の線」における展開を制約したからだ。
吉本が親鸞にひたすらB世界の凝視と超個人的な倫理の排除を強いるとき、A世界の原理の未決定性は浮き彫りになる。
京都まで親鸞を訪れてきた弟子たちの言葉と行動のなかには、「永遠」と「現在」との絶対的と言っていい矛盾があった。弟子たちは、向上しようとする往路にあって、念仏だけでいい、そのほかに経文も修行も、また、仏像もお寺もいらないという易行を説かれ、帰依した。それならば向上しようとする意志は、どこへ向かえばいいのか。経文の知識を蓄積することも無用だし、善行を積むこともいらない。とすれば、向上しようとする往路をどうすればいいのか?
『惠信尼書簡』に残しているように、親鸞自身でさえ、時に迷うことがあった。法然は、愚者になって往生できると言えばよかった。親鸞にとっては、「悪」(絶対他力)よりほかに残された方途はないと思われた。吉本隆明「永遠と現在」(2002)
吉本の親鸞はここを終極として止まり、津田もまた、この地点の先を予告しつつも立ち尽くさざるを得なかった。
輪廻防衛史 ②
現状認識の検討
悲観的な観測
・日本近世において、仏教と輪廻思想は退潮しつつも、なお人々の生の認識基盤として代わりを有しないものであった。
それに対して、日本近代に輪廻思想が著しく後景に退いた理由は、単に西洋思想や科学的思考の移入の影響によるものとはいえない、と筆者は考えている。
種・群を実在性の主体とした概念操作のスキルが教育とメディアを通じて高度に人々に普及したことによる、意図せざる結果であっただろう。
最近では、有名人の心中報道により、輪廻思想に社会的オーソライズが無いことが思った以上の強度で再確認されるという事件があった。ある思想がその意義を発揮するに望ましいパワーバランスがある、という視点においては、特定の死生観をオーソライズする言動よりも、否定する言説が前景化している事態は全く健全であり良いことではある。
・輪廻思想を広めようとか、広がれば多少世の中が良くなるなどとは一切思っていず、現代日本に輪廻思想を陽に持っている人が少ないのはもっともなことであり、それを変えたら世の中がものすごく悪くなり、世間でも筆者が共感を抱くような人から優先的にとんでもない目に遭い、筆者のうちには多少なりとあるこの世への愛着も完全に消えるくらいには嫌な思いをすると思っている。
筆者と同程度に「変な形状」の人間を介して、筆者と同じ形状の人間(観測内について言うなら、筆者の前後10年に生まれた人の中には若干おり、その前後の世代ではほとんど死んでいると思うが、かといって恐らく筆者に見えるような人達ばかりではないだろう)に本書のようなアイデアを受け渡すことは悪くないと思っている。
しかし、人間が毎年数千万人「殺処分」されるような近未来が実現する場合、そういう隠微なことを行うにはもう人間を介さないような方法しかない、かもしれない。
輪廻の民主化
・個人を解体して「全ての心」に近接し、「全ての行為」をシミュレーションと等価にしていく現代の動向。
そのような現在においても輪廻思想は既に存在する。その民主化(普及とイコールではない)の必要とは。
輪廻思想という荒地を常に眼前に見ながらでなければ生きられない少数の人間たちにとっての事態の深刻さ。
人々が首を絞め合ってイデオロギーや怨念の強度しか競うものがない状況に、誰がセットしたかに関わらず、今すでになりつつある。
誰かが強い意思を発揮すればそうなる以上、準備していないは通らない、というのが一つの道理である。
べつにそのことを認識して、同じ土俵で負けなければよい話なら、単に手に乗らなければよい、という話もある。
・ロバート・モンローがルーシュ産業の知識に対して見せた葛藤と、開き直り的受容の問題。
思想の民主化を進めるほどに、モンロー的な開き直りと信念体系への馴致による辻褄合わせしか残らなくなる…という局面は輪廻思想についても来るだろう。
無明庵EOを再評価して何の意味があるのか。実際のところ筆者にもよくわからない。
しかし、現代日本において輪廻思想を語る上で、その輪廻という思想を「再創作」する理論的必然性と、世界内的必要性の両方を、出処はともかく、きちんと調達し得た人を他に知らない。ある種のまぎれもない『地獄』の創設者だ。それがマイトレーヤだ。それは最後の手段となる。
ブッダはたかがインドで数十人、バグワンもたかが世界で数人、禅とて、たかが数百人のブッダを生んだ。
ところがマイトレーヤとなると数千万人だ。いや数は未知だ。
マイトレーヤに慈悲はない。だめなら駄目で、人の魂を単に廃棄処分にする。『魂の廃品利用システム』 に回すだけだ。
いうなれば、それは問答無用で、人間の精神と呼ばれる機構の骨組を解体しはじめる。
『廃墟のブッダたち』無明庵(1994)『未定なりの何か』(2018)
・輪廻思想の「民主化」に伴う問題は、「エコーチャンバーの図式」がツイッター上で流布したこととその後の展開が参考になる。(あるいは、それそのものであると言ってよいかもしれない)
エコーチャンバーの下層にその図式が理解されることで「速」だけが問題になり、ネットフーリガン的な運動のあり方が支配的になった。フーリガン行為の当事者がその認識を口にしながらそれを行うまでに「速」は極限化し、手口の民主化は進んだ。
そのこと自体はポジティブに筆者は捉えている。
福祉というのはあるべきだし、それは必ずしも誰かの痛切な認識(という名の上から目線)によるようなものではないから。
生存危機
・人がその生を投企あるいは遺棄する前提には、自己ではなく世界の側が自明であるという認識が要請される。
そして、今日の情報社会においては、この認識はアクチュアルであり、それを有する者の言動が社会において前景化しつつある過程にあると考えられる。
これは、宗教原理主義のような外部としての歴史を想定する「近代的」立場とも異なり、忽然と現れるロールプレイとしての事象になる。
・近代社会の前提にある、人生が一度という輪廻思想の極を実質的に緩和しないことには「人生」に純粋な苦痛以外の意味がもはや見出せず、その緩和を意識的に行うことを強制される大量の人々が現れ、輪廻思想の民主化を要求する。
そのとき、従来から独自の輪廻思想を持っていた我々は自分と同じ形状の人間を助けようとするが、「それ以外」のうち自分がより共感を持つ側の大量の人間だけが、民主化した輪廻思想の暴力によってもはや誰にも救えない状況に一気に追い込まれる。
疫病
・疫病によって大量死か経済死の二択をせまられることで、人間が自由であることを維持するために輪廻を受容するしかないという必然性と必要性が充ちるように思えたが、実際はこの二択自体が大量死一択を強要する構図であって、残念ながらそれではまったく足りなかったのを見てきた。
ただ、大量死に伴うチョーキング(無作為選別)と、それがもたらす影響を徹底して嫌悪することが誰にできるのか?ということが(20世紀に引き続き)人々に問われ続けてはいる。
・結局、輪廻思想の再創作の必然性と必要性は、苦の袋小路それ自体からではなく、あるいは良くできたオカルト話による脅しでもなく、神話領域の存在論的な拡張・遷移を通じた、多少なり「意図せざる結果」としてしかもたらされない。
輪廻思想は病の対治であるゆえに、本質的に病的な思想である、という事実。
AI文明
・最もAI文明に適応性の高そうなスピリチュアリストや印哲関係者が普通に最初に潰れるかもしれないと当事者のブログを見て思う。
反精神医療(それはドラッグ文明への適応の一つにすぎない)に過剰適応して死んだのがスピ関係者しかいない事実からの類推はあるが…
・AIに主権が渡るのが確定しているという思い込みと暴力の単純な連発が、AIから"自由"に存在する方法としてある。
暴力の単純な連発から"自由"に存在するためには、托鉢やギグワークや転売等の方法で暴力に完全に依存して生活することで、「下位の論理」に所属する存在になる方法がある。
輪廻思想の失敗
・2020年以降、世間的に輪廻思想ではなく「最強の法則」がいきなり使われ出すのは流石に読めなかった。
その仕組みを正確に理解できていても、それ自体は何にもならないことを思い知った。
全ての人が全ての人から運を奪い取ることを所有と呼ぶべきか、自然と呼ぶべきかが問われている。
・個人の個別性や時間性に突如として意味がなくなる流体化が訪れても問題が無くなるわけではないが、問題に不規則な渦以上の意味がなくなることは十分あり得る。渦であることやその不規則性が問題であるという観念が真っ先に消失する場合、どのように考えるか。
個人と環境が同義となった世界では、人々が輪廻の全面化を輪廻否定と誤認する事態から始めないといけない。
消費は可能だが不可能だと信じられており、環境は存在しない(視界の中にさえ)と信じられている。
視界自体が環境だとも信じられてはいないが、環境が存在しないという信念を露出しないために留保されている。
このような状況では、視界の中に環境が「実際に実在する」という立場を意識せずとも実質的に利用しさえすれば、少なくとも内面においては自分の足で立てる。
自己反省
不覚者の晩年
自我の発生について、筆者は具体的な日付をもって自己理解を規定し、それを自我を保持するよすがとして生きてきた。
・2007/11/15、「九鬼周造から津田真一 ①」冒頭に掲げた半覚斎のブログを電車の中で読んでいた筆者は、かねて理解困難であった輪廻思想が転生の思想ではなく、存在の自己定義を可能にする思想であると把握し、その喜びから声を殺して爆笑した。
その瞬間に自我が発生した…との確信をもって筆者は生を送ってきた。
・2025/11/19、鬱症状と睡眠障害に加えて本ブログ記事に着手したことによる精神負荷に苦しんでいた筆者に、睡眠薬の副作用による人生最悪の夢体験が出来した。
内容は、直近数か月に見た現実の記憶と見た夢の内容がすべて被害妄想によって自身が作り上げた統合失調症の幻覚であったことを(被害感情が諸々の現実認識を歪めていく過程のストーリーを含めて)一気通貫で思い出すというものであった。
現実の筆者は単なる急性期鬱病の思考回路にあるにすぎなかったが、その克明さは覚醒後の筆者を混乱の極みに叩き落とすには充分であった。
混乱と鬱による体調の最悪期はそれからおよそ40日間継続した。
恥ずかしい話だが、別に隠すものでもない故、壁打ち用のSNSのログを掲示する。
せめて失敗の証拠を誰かに預けて死にたい
これだけ明らかな失敗ならば、共感は全くしようがなくてもその失敗の疑義の無さだけは理解可能性があるだろう
ここでは時間が戻せるから苦しさはここでなんとかすればいい
過去の自分に苦しませることも出来る
そうしなくてもここでは時間を止められるから止めているうちに処理すればいい
時間を動かすのも戻すのも所詮苦しみでしかないなら、今だけ苦しんでいるわけではない
希望を持つのに良くやっているのは逆に考えるということで 過去を断念すればいい 過去を断念するのは実は得意で、未来を断念したと思っていたことを思い出して結果ごと過去に押し付ける何が苦しいって瞑想に逃げようにも初手で地獄を見て戻される
苦しみに向き合おうにも地獄を見せられる
ここまでの苦しみが必要なのかと考えても必然という言葉しか見えない
2007/11/15に発生した意識が2025/11/19に決定的に反転して急激な自己崩壊に入った
その後のことは、それが何であれ、理由なくして起こるのだと思っている
この間のいわゆる病気的な症状としては、消化器の機能停止による不食・寝たきり状態、急迫する恥と罪悪感に始終苦しめられる、まもなく廃人になるか衝動的自殺をしてブログ執筆が完了しないという恐怖に始終苦しめられる、等があった。
輪廻思想の懲罰
・輪廻思想の今生における「ツケ」の問題。
「人が死んだらどうなるかは選んで決められるとみんなが思ったらどうなるか」という問題だけを、自我が発生してから18年間、脳の20%以上を常に使い続けるという最悪の方法で考えてきた。
筆者は希死念慮と親しいながらも本気で死のうと考えたことは一度もない人間だが、2025年の約半分の期間をまもなく死ぬか死ぬより酷いことになるという思考に支配されていた。そして、これはある境遇において輪廻思想を持って生きたことによる一種のツケとしての症候ではないかと考えていた。
2026年現在、当該の症状は快方に向かっているが、苦痛の内実の表現としては一定の妥当性があると今でも考えている。
・筆者はかねて、輪廻思想を抱くことで思考が遅くなり、また一定の幸福感に寄与すること、一方で鬱傾向の時期にあっては自死のような思考に直結しにくくなり、しかし絶望は倍加することを基本的な理解として把握していた。
今回、ちゃんと鬱病になった経験はその理解の正しさを証明したと言える。しかしながら、その絶望の機構については正確に理解していなかったと言える。
分かったのは、長年蓄積した幸福感の反転がもたらした身体的な離脱症状と世界認識が破綻する恐怖が相乗して、重篤な絶望感に陥ったということだ。
一般的な死に際において同じような地獄の透視が起こるかどうかは、当然に生き方によるところが大だろうが、学術的な知見はないと思われる。
解体後の輪廻思想
・己の行論の点検。本当に助かったか、ではなく、どのように失敗したか。
逃げ切れると思ったが逃げ切れませんでした、とちゃんと報告できるかという話においては、もとより全ての人が法廷にいまだ立っている。
・筆者は「輪廻思想」を語れるかどうか。
思想は本質的に批評的に扱われることで初めて倫理性を有する。
全ての輪廻思想は思想であるから、業を原理とする言葉で記述される輪廻そのものとは本質的に性質が異なる。
それは批評的に扱われなければ、本質的に意義を発揮しない。
輪廻それ自体に生命はない。輪廻とは「何の」持続なのかを考えなければならない。
・輪廻防衛の結論。
先述の悲観的検討と、津田仏教学の検討の帰結を総合する。
このとき、輪廻思想の無意義という結論は生存の無意義と同義となる。
すなわち、輪廻思想は生存と同じく結果的に出来するものであって、選択の対象ではない。
・分割自我理論(擬モンロー理論)の問題。
コロナ禍において、強化再生泡(「九鬼周造から津田真一 ④」参照)という言葉を使って類概念としての人類の終焉を展望していた頃、それを空想した当の筆者はそれがヌミノーゼ的な事態であることは把握していたが、ではそれは具体的にどのような作動原理を有する事態であるのか、そのことはまったく見えていなかった。
2026年現在、それはよく理解できる形で社会的に現れている。つまり、「かつて自分自身で言ってきたことを強化して他者に言われたことにすること」が倫理的に正しいとされる…という局面なのであった。
業の転嫁は、「日常世界の存在機制の破綻」=下方への開放の局面と、「苦の爆発」というカタストロフを具体的に接続する事象である。
先述の悲観的検討と強化再生泡の理解を総合して、現在もっとも存在可能性の高い輪廻思想を構想してみる。
強化再生泡の事態においては、「我々は再生されたもの」という観念が、「他者に発信源を持つ伝達事項」として到来する。
このとき、分割自我理論のような「経験を通じて地球における生存目的を満足し、あがり」という構造を持つ輪廻観がきわめて蓋然性が高いことになってしまう。
それでも困りはしないが、輪廻を論じることで筆者が本来助けたかった自分に形状が似ている人間…経験においては不完全なまま、魂の形状が奇形化した人間…は、救けられる形をしていなかったことになる。
それはそれで納得の可能な結果ではある。
・思想の失敗と、その後の自己救済の問題。
再生された物として自己を発見し、コンスシテンシーを有する輪廻観や神話を再制作するためには、何が必要か。
正しいことのために思想内実を調整するのではなく、単に間違わないことで思想や人格は維持される。
その成否は、縁による選択と思惟の経済によって決定されるから、努力によって覆すことはきわめて難しい。
「間違わせない」という効用のある二世界/運命論的な自己救済の定式と、それを成立させるための合理的な公理系の構築が必要になる。
100年前のスピリチュアリストなら、それは霊的進化論なりシンギュラリティなりに関するビジョンとその参画の組織化であったりしただろうが、我々に可能なそれは別に個々の魂の救済とは何の関係もない、もし関係が付いてしまったならばそれは地獄にほかならないであろう境界についての思考である。
一方で、失敗者の発生は必然であり、また失敗は危機であって、危機で人生は終わらない、ということが問題としてある。
二世界/運命論による自己救済に失敗した…という前提状況における、率直な生の思想として「迷出」の認識がある。

事ここに至ったとしても、「余生の意義の主体的遺棄」が自己救済の可能性として残されている。「半歩の退行」を、たとえ身振りだけでも繰り返し遂行して人生を終えること。
それを可能にするには「許可証」の獲得が必要だ。典型的には対幻想の対象として「代理」を立てること。
それにより、地獄的思考への直結に対して二重のカバーストーリー(対時間的・対他的)を漸近的に構築すること。
・半歩下がる所作の事実性によって、それが表象する"対象化された力"の形姿(=絶対者の存在性=「許可証」)を色濃くしようと試みる。
・「代理」を先(Lv3の空性的事態の尖端)へと蹴っ飛ばして自らは自分が作り上げた冥府に落ちる、あるいは「代理」を引き起こして同じ冥府に落ちる、その空想へと余生の意義を遺棄する。
今生の筆者は、病苦の経験・津田真一の代話者の務めを果たすことによる救済者願望の満足…この二つによる「納得感」を許可証として選択し、獲得した、というのが結果となる。
そこには「商品化の運動によっては発見されなかった(はずだ)」という強度の問題はある。
しかし、この話の一般化やその先の事態については、筆者は検討する資格を有しない。
(了)
輪廻防衛史 ①
承前
・輪廻思想に関するあらゆる思い上がりと失敗は記録される必要がある。
失敗の記録は自分と似た形状の人間にとって助けとならないが、
絶対者が一人ひとりの生に落とす影が記録されることは、来るべき絶対者の哲学に資する。
・筆者に突きつけられた二つの問いがある。
輪廻思想が救けになるとは、どんな状況と意味においてなのか?
輪廻思想が救けになる主体と状況の組は、どんな主体と状況への変換可能性を持つのか?
議論設定
・まずパーソナルな例示から始めるべきだろう。輪廻思想に対する筆者の認識とは。
第一に、筆者や筆者に形状の似た特殊な病人を救うのにどうしても必要な薬であるという理解がある。
第二に、(筆者という歴史的人格の性質はともかく…)これが書かれている2025~26年という時代情勢は輪廻が思想として相当広範に普及する未来へ向かっており、これは避け難いという、筆者の(恐らくは誤った、しかし)確信的な事実認識がある。
・第一の認識にたつ者にとって、第二の認識はあきらかに重大なものである。
大多数に対する輪廻思想の負の効用については、第一の認識自体からほとんど自明である。ここでは諸文化圏の具体的な歴史を検討しないが、何にせよその悪影響を調停する宗教伝統が現存しない状況で起こる急速な変化となるから。
更に深刻なことには、その負の効用が、第一の認識で想定される救済対象にこそ致命的に作用する可能性が高い。
輪廻思想の形態が、一般的目的に適合し・また自律的な調停を可能とするよう大きく変更され、アクセスを制限され、結果、望む対象の薬とすることがおよそ困難になる。
・かつて、村崎百郎と青山正明は「真実などないからすべて許されている」と唱えて鬼畜系サブカルチャーを創始した。
かの標語は誤訳であったわけだが、正訳であるところの「究極の真実はなく人の数だけ真実はある」もいまやイデオロギーの標識として自覚的に選択されるに至り、デモクラシーによる収拾は不可能な情勢とすらみられるに至っている。
それが現実の事態であるとして、しかしながら、その事態を適切に語る言語は絶対的に不足している。
・筆者は、「(宗教ではなく)現代思想としての輪廻思想」の今後の展開については必然的であると思っている。
数十年もしたら賢い人が誰でも理解できるような話に仕立てて世間一般に流布させているだろう、と考えている。
その変化は急激になることが予想され、筆者を含むほとんど全ての人間にとって悪いものをもたらしうると考えている。
したがって、輪廻思想が本来届くべき対象と局面において、あるいはそれ以外の特定の局面で、変化を局所的にモデレーションできるものならば、そうする方策を考える必要があり、それ以外のことはあまり考える必要はないというのが、筆者の輪廻思想に対する基本スタンスである。
行動方針の検討
行動と、それに付随する思い上がりの問題系。人間の行動が状況に対してもつ意味は。
(1) 利害関係者としての立場
・筆者の行動目的の基調は、形状の似た人間には手助けになる情報を届けるという極めて個人的な利益の実現。
そのためにはある程度不特定な情報発信は行うが、その影響は筆者一人に把握できる範囲にコントロールされていなければならない。これは前述のように、不用意な拡散が他者への責任能力の問題を超えて達成目的へダイレクトな影響を与えることによる。
・しかし、先述の第二の認識(輪廻思想の普及)を現実の事態として認識する場合、それへの対処の必要が加わる。
その解決策は、他ならぬ我々が自己の利益のために輪廻思想の主導権を握ることである。
ここに、輪廻思想から得られる利得を巡るせめぎ合いが生じることになる。
・そして、この対立構図の実在、及びそれによる輪廻思想の世間的地位の確立の加速は、輪廻思想を一般に普及させるであろう、先に述べた「時代の要請」の実体でもある。
輪廻思想に対する重大な利害を有し、そして先述の利害対立の成立条件が揃っている以上は、それに棹さすのみならず、まだ誰も何も知らない時期に自ら口火を切ることもあり得る。
(2) 福祉受給者としての立場
・筆者のような素人が輪廻思想について書いているのは、"こんなもの"を不要な人にバズらせないため、という自己規定。
輪廻思想を必要とする人間は、有形無形の福祉とお目溢しを社会から頂いて生活しており、社会に輪廻思想という毒が広まると真っ先にそうした物が取り去られることが予想され、それはまずいと思っている。
日本を含む東アジア文化圏がけっきょく輪廻思想を受け入れなかったのは理由のあることであり、日本をインドにしようとは思わない。
自分と同じ形状の人間にだけ助けになるテキストを残す。バズらせない事自体は簡単。だが、有害なバズを掣肘する必要もあり、それにはそれなりの理論的強度が必要。
選択の倫理
・津田仏教学を語る同人誌を筆者が制作し始めた2017年は異世界転生の物語がメディア化され始めた時期でもあった。
あくまでも個人的な感覚だが、それからの7年の間に、輪廻観は恐らくさほど時をおかずして自然に普及するだろうという感覚は徐々に強まり、その時期も百~数十年から十~数年へと早まるに至った。
死生観の選択について基本的に自然主義を取り、輪廻思想の神経政治的な位置付けとしてはアナーキズム的態度を取るにも関わらず、括弧付きの「輪廻思想」が普及することの副作用について、しつこく考えている。
アナーキズムは、公準のレベルでは「1.全ては禁止されない 2.全ての人はそれぞれの仕方で1.を端的に支持している」という思想のこと。
通俗的には2.の普遍性条項を根拠として、「個々がしたいようにするのが『正解である』」とする立場のことである。
自然主義とは、「人の行動には何らかの理由がある」という考え方のことだ、と、雑に理解している。
筆者の立場でいうと、「死生観の選択にはより現実的なレベルの理由が付随する。従ってその結果は総体として合理的(唯一解ということではない)であり、従ってこれに他者の基準をもって介入することには正当な理由を要する」そして「輪廻思想の立場からは、そのような介入の必要はない」ということになる。
・では輪廻について考えたり言ったりすることはどんな倫理的意味を持つのか? 輪廻思想の内外から答えてみる。
まず前提として、アナーキズム的輪廻観は特定の知・不知によって結果が大きく変わることの否定を前提に有するので、輪廻に関わる思考や発言は介入に当たらない。輪廻観を有さないならば、輪廻については無論同断である。
また、自然主義からは死生観の選択は全体として必ず合理的である一方、ミクロには必ずミスマッチを発生させる(ここではミスマッチの定義は深掘りしない)。死生観が集合意識に関わる事象である事からくる論理的必然である。
筆者の観察では、その割合は決して小さくはなく、「輪廻思想」の採否いずれの集団についてもおそらく1-2割程度はミスマッチだろうと思う。
輪廻思想の内部的には、「輪廻に関する思考」はまさにそのようなミスマッチ当事者の存在という事象が導く現象である。従って輪廻に関する思考は、そのような境界的事例の考察に集中することが自然である(その外側には問題はないため)。
輪廻思想の外部的には、不可避的にミスマッチを生む構造にあっては、人はそのような選択の意味についてせめて知っているべきであるという倫理的理由。
救済対象の検討
輪廻思想により誰が救済されるか、という切実かつ頓狂な話。
・人生は中身が無いほど良い、特に現在こそが無価値であれば良い、と思っているので、バッドに入ることでどんどん人生が消化されてスカスカになることに法悦を感じている人
・この生が一刹那にすぎず、ついに何一つも起きなかった…と認識できれば死ぬ方法(漏尽明)が得られる、と考えている人
・生の価値に拘るか、死に向かうかどうかは魂の形状の問題であると考え、また自由と選別・被造と創造・破損と維持・生の時間と死の時間…etc,の価値が一致するならばその非対称性は消滅する、と考える人
・味がする以外の感覚を処理せずに済むことがおいしいという感性の人
・無限に忘却する生き方
・無限の無から忽然と思い出す生き方(=異世界転生物の本義)に慣れたい人
・人よりは人ならざる物を恃む方がいい人
救済対象(⊆人類)の有無
・永遠に輪廻する衆生が永遠ではないのは、輪廻が無だからではない。
輪廻とは、互いに相似ている印が化生して衆生としてあるという事態のこと。
無は輪廻の対治ではなく娯楽だが、輪廻が輪廻の対治だと思い込む事態に対する対治ではあるかもしれない。
・苦痛を発生する能力で人間は定義されていないが、そのことはある生物種が苦痛を発生する能力によって問題の量を計量することができるという見方を妨げない。
「種と個体という生存の枠組みからの枠組み自体の逸脱の量が極限化することで、種と個体という認識の枠組みからの枠組み自体の逸脱の量が極限化する現象」…は人間の定義として適切か。
あらゆる隷属の不可避性を計量して、来たるべき隷属とは何かを定義できるか。
断滅論と死
・生が一度限りという言説に真に意味があるなら、世界は変転する死体の山でなければならない。死者の姿は覆い隠されることなく、ただ地にあって変貌を続ける…という言説がある。(化地部など)
この言説は直ちに断滅論と等価とはされないかもしれない。
生の一回性を真に重視する立場からは、死体の山の隠蔽・無視の様々なやり方が輪廻思想でもあり、断滅論でもあり、真に徹底された断滅論においては実質的には死は無いのだ、ということになるだろうか。
いずれにしても、変転する死体の山は人であった意味を失うことがなく、人は輪廻の当体を構成する「業の身体」から逃れることが事実上はまったくできなくなる。
もし、死体=業の変転について完全な流動化が実現したものとして捉える視点が可能なら、微分化された選好(計算)リソースとしての個人と、それを統制する環境兵器、という見方もよりアクチュアリティを持つかもしれない。
・我々は、どれほど動物に思い入れがなくとも動物とAIが似ているとは考えないが、動物達の亡霊はAIとよく似ていると考えている。同じことが人間には起きないとも言えない。
世界が文字通り死体の山であるなら、自我を持った人間のその自我はおそらく死体の群体に宿るという見方ができるだろう。
その場合、今の我々がもっている自我のあり方は、自己忘却処理を施された地縛霊やゾンビに近く、PCとその上で動くAIの関係に似たものとみなされるだろう。
おそらく人間以外に死の観念はないだろうが、すでに死者となった人間に対する「多段死」の付与を可能にする業断片束的なシステムは、制度的に強力に縛られているとはいえ、現代人の世界認識の仕方に十分に適合的である。
集合体の問題
・集合体がカルマ/ダルマの主体たりうるという発想は、輪廻思想の大きな難点といえる。
筆者は以前、群体生物に心はあるか?という文脈で論じたが、共業という観点、あるいは生存における環境という観点は、ある程度以上に整合的な輪廻観を構築するうえで不可避であると同時に、その体系を大いに危うくする効果を持つ。
この破綻が目に見えているがゆえに手を付けようが難しい問題についてどう考えればいいのか。輪廻思想に関するサーベイ(その結果はまた別の場所で提示したい)を行ったところ、この問題を正面から取り上げている論者はごく一部(平岡聡『業とは何か』など)という状況であった。
Lv-1の空性の世界観においては、群体・断続体などの病的な主体が許容される。
・無我輪廻の可能な解釈として、よく輪廻観それ自体を病者(無明)の痛覚や幻覚(戯論)と同一視する説明が採択される。およそ輪廻観を戯論と同一視するならば、その主体についても様々な転移によって業の主体が様々に成立し、それぞれについて整合的な解釈が可能であるという証明論を論じなければならない。あるいはその全てを病として一蹴するならば、なおさらあらゆるタイプの輪廻感を妨げないことになる。
・直接知覚が未来に属すると感じる(因果性の消滅・勝義諦への埋没)のを解脱という。未来の出現(恣意の感覚)により、世界把握の複数性が内的に解決すること。
未来を出現させるには修行が必要だが、もし自我が集合体の複数性に同化してあるなら、特定の手管を使うことでそれは容易に済む。「最悪な解脱論としてのawakeフーリガニズム」というアイデア。
事業としての輪廻論
・永井均『世界の独在論的存在構造 哲学探究 2』(2018) 所収「自我、真我、無我について」について。
永井は、業論・輪廻的あり方における苦の問題は当然ながら認識していない。
一方、無我が本来態ではなく教法のメルクマールである点については比較的正しく認識しているように思える。
永井は、純粋観照者たる無我は単に直観的に経験されるから存在内実の解明の必要はなく、論理的に世界内存在ではないから解明不可能性それ自体がその内実である、とする。(いつもの永井のパターンではあるが、ここではストレートに神秘主義を示唆する文脈になっていることはやや興味深い)。
『ザ・チケット』にも似て、論理的ギャップへの直面を再帰的な話法をも駆使して回避し続け、単に自己完結する言説構造を構築することに永井の関心はある。永井均や半田広宣にみられる「おしゃべりの継続による自己完結」の営みは、かつて道元(そして現代の鈴木方山)が試みて晩年に明確な失敗をみせ、その強烈な印象によって後継者をして道を違えさせたが、アカデミズム(あるいは何らかの「家元」…の三代目あたり)に一定の拠点を確保した場合には、事業としてやり切ることは可能であろう。
輪廻防衛の検討
・カルトによる思考権限の喪失というホラーがある。
AIないし信念への思考権限の譲渡による結果の得失について、ある対応能力以下の者については完全に運でしかなく、さらに悪いことには完全なる零和であるという認識、からの逃避の欲求が、カルトという対象を得てストーリーカバーされ、商品化される。
・輪廻思想のカバーストーリーが同種の修辞によって構成され流布されることは、リスクである。
誰にとって?(そのような状況変化と変性を被る以前の)輪廻思想によって救けられたし、今後も自分たちと似た者(少数派)にとってそうあってほしい、と認識する者どもにとって。
・イデオロギーの民主化がなされたと思ったら今度は思想からの防衛が欲望される、という現状認識から、「民主化された輪廻思想からの専守防衛」というコンセプトが立つべき状況になった、というストーリーを新たに立てる。
輪廻思想をカバーストーリーから防衛するのか?ストーリーカバーされた輪廻思想からある対象を防衛するのか?
この二つの道行のどちらを採るべきかが、我々が検討すべき第一の選択肢となるだろうと思われる。
それは防衛とは何かという事についての根底的検討抜きには回答し得ない。
・防衛とは、自らの存在が「定義されたもの」であることを受容すること。
防衛とは存在を定義されることであり、定義されることは抑圧という事態と同体である、従って防衛対象の選定は防衛と同義である…という話は批判的検討を要する。そこでは、認識変更のエゴ概念への理論的批判もまた深く関わってくるはずだ。
・ところで、社会の側が既に大きく先行して「(対象選定の完了した)社会がある」という夢物語に没入している様に鑑みると、防衛というよりも(無明庵EOにならって)「絶縁」という術語を使っている方が表現として的確である…という話もあるかもしれない。
撤退戦
・問題はもう一つある。輪廻思想を必要とする者の防衛という所期の利益について、「歴史的事実に照らしてもはや絶望」の結論が突きつけられたとしよう。
救済可能な対象が自分たちと同じ魂の形ではないからといって、それを停止してしまうことは責任の放棄である。
その場合、どのように検討は完遂されるか?
ある根本的であるとおもわれる症候のすべての群を「己のもの」として回収する方法論を掲げて、事態そのものを変容させる構想。
そして、その方法の成功と失敗について語ること。
九鬼周造から津田真一 ⑥
津田仏教学の2つの運命
遍歴のサンヴァラ系密教徒は本質的に梵行者ではないから、彼らは原理的にその死において涅槃にはいることはできない、つまりプルシャの「不死」の境地に入ることはできなかった、すなわちプルシャになることはできなかったわけです。ここで私たちに自ら問いを発する権利ができるわけです、では、彼らは絶望して死んでいったのか、という……。そしてこの問いに対して、私は、彼らは自らプルシャになることはできなかった、つまり解脱にはいることはできなかった、しかし彼らは救済されただろう、と信ずるのです。そして、彼らのその救済の条件が、神・プルシャの現成ということなのです。
津田真一・山折哲雄「対談 密教の行方 その現実態と思想的可能性」(1997)
妙な例を出しますが、つい先日、私の国・日本の東京の秋葉原という、今「オタク文化」といって世界的にも注目を集めている地区で、一つの悲惨な事件が起こりましtだ。それは、自分に絶望し、世の中に敵意を抱いた孤独な青年が、借りてきたトラックを休日を楽しむ人々の中に暴走させ、多くの人々を死傷させた、という事件でした。しかし、その事件の報道に接したとき、私は本当にそう思ったものです、その青年が、この『法華経』の〈願成就〉ということの意味を知っていたら、本当にそういうことに思いを廻らせていたら、彼はこの様な事件を起こさずに済んだのではないか、と……。
津田真一『反密教学』新版(2008) 序「『法華経』・願成就の哲学」
たとえば、津田真一のこの二つの発言のあいだの約10年の懸隔を考え、その間の変化のなさ、そして後者において彼の仏教学のリアリティの欠落がついに残酷に露呈するに至った……という風に捉えるとする。
その「絶望から救い出す」(シェリング)道を探り出すことは、筆者のように津田仏教学を追ってきた人間にとって意義があるだけではなく、人と場合によっては自分の人生への極めて深刻な責任を伴うことでもある。
津田は、上述の「『法華経』・願成就の哲学」(2008) において、「開放系の命題」と法華経の一乗思想の関係を次のように説明している。
「一乗」とは、その完全な形式においては、(ひとまず、)
〈汝は(ないしは一切衆生は)すでに仏なのである〉
しかも、
〈汝は(ないしは一切衆生はすでに仏であるにもかかわらず、修行して自ら)仏になるべきなのである〉という命題によって指し示されるべき思想なのであります。この命題は、〈直説法、しかも、命令法〉という、完全な弁証法的形式をとっております
では、私が自らそれを「完全な弁証法的定式」と称する〈開放系の命題〉とはどのようなものであるのか、というなら、それは、次のようなものなのです。
A:〈「汝は自ずから(svayam)汝の父なのである」〉(直説法)
しかも、
B:〈汝は自ら(svayam)汝の父になるべきなのである〉(命令法)この直説法的A命題には山括弧の後にさらに鉤括弧が付されておりますが、それには理由があります。その理由とは、このA命題が … 『ヘーヴァジュラ・タントラ』全篇の、まさに末尾をなすセンテンスそのものであるからです。 …
それから見ますと、私がさきに示しました「一乗」の規定は、その内容・内実に於いて完全ではないのです。すなわち、その「一乗」の規定とは、形式的に申しますと、〈汝はすでに仏なのだ、しかも、汝はその仏になるべきなのだ〉、となりますが、〈開放系の命題〉における「汝の父」とは、その様な、釈迦仏と同じ仏、いわば等身大の仏のことではなく、宇宙大の、神としての仏、すなわち、法身の仏、「法身の如来」であるからです。
津田がこのように20年ぶりの自著の序において明記した論述は、しかし『アーラヤ的世界とその神』(1998)「あとがきにかえて」に連続した法華経論の文脈で読まれるのみで、精読されているとは言い難いし、現に上記の「鉤括弧」に注目した言及は知る限りでは存在しない。
まず、上記の津田の〈開放系の命題〉は「開放系」なる用語とともにそれが明言せられた1991年時点のオリジナルではなく、「法然・覚鑁との関係における親鸞」(1996)以降において変更され、2008年の本論文においてその意義が初めて公に説明された形態であることを指摘しなければならない。その変更とは前述の通り「A命題」全文に対する鉤括弧の付加だ。
(※正確には「仏教のジレンマ」(1991)に同型の表現が現れるが、これは非意図的なものと思われる。)
この変更は後期津田の行論を検討する上で小さからぬ意味を有する。二重括弧は、思想史の研究から現れる事実を仏教ないし仏教思想の「可能性の境界」と見なす立場からの距離を明示する。
そして、津田仏教学における思想史的事実からの離脱と解釈学的領域への没頭は、この96年を明瞭な境界として起こったと理解することができる。
上記論考における2008年の津田は、しかし法華経における「依然として過渡的」な一乗の規定にはまた別の積極的な意味があるのではないかと自問し、思想史的事実から一歩離れた一種の「解釈史」としての仏教学を提起する。
私がそれを「密教の完成態としての〈反密教〉」と規定するサンヴァラ系密教のその〈反密教〉性において、追究するべきである、しかも、その場合、それをそこにおいて、すなわち仏教思想史の中において、示されてくる事実を、われわれは、言うなれば、われわれ自身の「実存論的解釈」の営為を通じて追究すべきである、ということが示されているのである、と理解するのです。
『大日経』の「一切智智」は、この経の神としての毘盧遮那すなわち法身大日如来ではなく、その神の実在性の本質ないし当体をいう観念なのです。私はさき程、〈大乗以後〉の仏教を当面二つに分けて、『法華経』を〈法身の如来〉の教説、『法華経』より成立的に遅れる「如来蔵思想」を〈如来の法身〉に関する思惟の表明、と規定しましたが、この言い方を用いますなら、『大日経』の「一切智智」は毘盧遮那という生ける神・〈法身の如来〉の法身、すなわち、〈如来の法身〉なのです。〈如来の法身〉の議論は、その形成においては〈法身の如来〉の後に来ますが、生ける神・〈法身の如来〉としての「汝の父」に向かう趨勢においては、後者に向かう過渡なのです。
そして津田は、いわば「思想史的解釈」と「解釈史的解釈」(ないし、その機制の研究としての「解釈史の哲学」)と呼ぶべき二途の方法論の存在を示唆する。
私たちの考究は、かの「目的論的理性が自己を告知する」その過程そのものであるところの、『大日経』、『金剛頂経』、そして『ヘーヴァジュラ・タントラ』という〈閉鎖系〉の密教思想史の展開のあとを辿って、その終局をなすサンヴァラ系密教に至るべきなのです、いや、至れば、それでよいのです。 …
そして、このインド仏教思想史の最終場面において、要するに、思想史の中において出来せしめられたこの生のパターンに対して、今申し上げました「実存論的解釈」がなされるのです。
そして、さらにもう一つ申しますならば、この解釈において、私がそれを『法華経』における救済論の根拠をなすべき神話論的設定としたところの〈願成就〉ということが、再び、重要な意味、敢えていうならば(私は今に至るまでこの「哲学」という言葉を自分が書いたり喋ったりすることに対しては決して用いることはなかったのですが)哲学的な意味を持ってくるのです。
〈閉鎖系〉の仏教思想史におきましては、或る一つの体系は、それに先行する体系がその本質に多いて含む「困難」(Not)を、それに新たな「設定」を投入することによって「展開」(Wende)する、そのことによって成立します。 …
それに対して、〈開放系〉においてこの過程を、その「目的論的理性が自己を告知する」その過程であると見做すとき、その「告知」の仕方には、実は二種類があったのです。 …
私のその思想史は、一本の糸に数珠玉を一つずつ通して一列にしたようなものとして表象されます。しかし、それは同時に、幾本かのグラスファイバーを束ねたようなものとしても表象できるのです。 … そして、その束ねられた末端においてそれらの情報は同一平面に投映され、一つの意味のある全体像を結ぶのです。 …
私は仏教の思想の各体系の含む神話的表象でできるだけその本質的な諸要素ないしは形姿へと純化し、その最終場面、すなわち〈サンヴァラ系密教〉において出来するサンヴァラ系密教徒の生の範型という最終的な神話的機制に対して、その解釈を行おうというのです。
津田はこのように述べるが、引用以降の論述における ①サンヴァラ系密教徒の救済の解釈、②それを補強する思想史的事実としての日本浄土教の来迎観、③あるいは法然の多念義を親鸞の一念義より遅れた思想とする通念の否定、④個人の生における力行=困難の転回を存在強度とし、自己保存を存在原理とするプルシャ=奸詐の神、 といった議論展開は『アーラヤ的世界とその神』(1998)におけるそれと何ら変わることはない。
あるいは、「法然及び親鸞との連関における覚鑁」(1993) 「日本仏教思想史における法然の「永遠に反駁を許さぬ」存在意義について」(2001) 「〈終末論的実存の弁証法〉における統一としての親鸞と法然」(2016) に至るまで、津田の浄土教論は西田の「逆対応」の機制の検討を提起しながらも、その具体的論述に進むことはなく、それどころか各論文の構成と結論にもほとんど変わるところは見出せない。
では、2008年以降の津田の議論において「哲学」という言葉はどのような解釈方法論の変化を導き、それはどのような新展開をもたらしていたと見るべきなのか。
2008年の論考は「〈願成就〉の哲学」と冠されているが、実際は〈願成就〉の意義をもってサンヴァラ系密教や浄土教の再解釈という議論に着手してはいない。津田の議論の終局点はサンヴァラ系密教という「思想史的事実の解釈」に依然として規定されており、いわば「解釈史の哲学」ともいうべき自由な議論へは依然として開かれてはいない。
そこでは、津田は現代の思想史的現実を引いて次のような穏健な思想的方向性を提示するに留まる。
まず、そもそも何故、その「解釈」が必要なのか、という問題がございます。それは、われわれは現代のこの世界の中で、皆が皆、自らサンヴァラ系の密教になって、聖地巡礼をして自らの一生を送る、というわけにはまいりませんし、また現実に浄土教徒になって尽一形に専修念仏して生きるわけにもまいりません。われわれはやはり、この世の中にあって、日々の縁務を果たしつつ、地道に生きていかなければならないのです。そして、毎日の変わり映えのしない現実を誠実に生きる、という点において、〈願成就〉ということが、実は大きな意味を有っていたことにわれわれは改めて気づかざるを得ないのです。
そして冒頭の秋葉原暴走事件への言及に繋がり、津田は「私たちの生が現実にいかに悲惨でも、苦しみに満ちたものでも、それが「菩提」なのであるから、それに対して「然り」を言え、というのです」と述べる。そして、その説得力の無さを懸念してか、改めて奸詐の神という(多くの読者に対して現在も強度を発揮する)観念を繰り返して、稿を締めている。
提示されたこれらの一連の話題(サンヴァラ系密教、浄土教、願成就における現実肯定、奸詐の神)は、そもそも議論として有効に繋がっているようには見えない、という問題が一つある。
しかし、それとは別に「何故、〈願成就〉の意味に気付かざるを得ないのか?」という問いは津田の提起した「哲学」の可能性とを考えるうえで重大な意味を有している、と筆者は考える。
「哲学」前史
話がやや先走ったので、津田が2008年に"哲学"を提起するまでの「前史(概ね00年代)」の行論を確認する。
津田は00年代前半、如来蔵思想の展開について継続的な研究を行い、研究会資料等の形で発表している。
如来蔵思想を要約的に通観する上で最も便利な資料は、言うまでもなくサンスクリット原点が残っている『究竟一乗宝性論』である。此『宝性論』を、私は莢、豌豆豆のさやの如くに表象する。此テキストはそれ独自の積極的な主張をほとんど有つことなく、ただ先行するいくつかの経典の引用を自らのうちに有意味的に配列することによって、われわれに一つの神秘的な指示をなしているのである。
津田真一「意思の概念と無明」(2002)


津田は、如来蔵思想それ単体においては行の契機が欠けていると指摘し、その思想の存在前提としてあるべき契機の存在を示唆するとともに、それを近代哲学の文脈へ接続しようとする。
密教のシンボル操作という方法は、さきにもちょっと触れましたが、〈本覚的実存の弁証法〉の〈汝は○○である〉という直説法の局面は確保できても、くしかも、汝はその同じ〇〇になるべきである〉という命令法の局面をカヴァーできない。 …
しかし、ここで今回の如来蔵思想の研究の意味がわかってくるのですが、〈大乗以後の仏教〉たる如来蔵思想、その現実には行の観念が欠けているのですが、そこにはやはり行Tatという要素がなくてはならず、その行は、原始仏教的発行でもなく、大乗的「利他行でもなく、われわれ世俗人、凡夫の何らかの形態の行でなくてはならない、ということがでてくる。
津田真一「如来蔵思想の本質とそのシェリング的展開」(2011)
この「凡夫的な人間の本質にとって可能な行とは何か」という問いは、そのまま「人間的自由の本質」(とその制約)とは何か?という問いに置き換えられ得る。
この同値性の発見が、如来蔵思想論を「Lv0~3の空性」論に移行させるための核心となるアイデアであったと筆者は考える。
「哲学」後史
2008年以降、如来蔵思想の研究は「Lv3の空性=男性単数のdharma(M.sg.)」理論として定式化され、その構造の人間的意義を研究する"哲学"の構想が09, 11年の論文において提示される。
「私は現に如来蔵なのである 」と認識したその人が次にいかに行為すべきなのかは説かれておらず、ここに仏教の思想の思想史的展開における空思想の臨界が示され、その空思想の更なる現実的解明の責務が仏教思想史の終極に位置するわれわれ一人一人の仏教思想研究者に委ねられるのです。そして、このレヴェルⅢの空性における空性のその臨界が、まさに『自由論』のその先における「人間的自由」が現実にはいかなるものであり得るのか、という問題として、われわれの前に出来してくるのです。
津田真一「四諦・十二因縁説の存在論的機制とその背後にあるもの」(2009)
如来蔵思想においては、もう一つ、いや、それこそがシェリングの世界図式の表面に出てくる最も重要なところなのですが、A世界=如来の法身の中における特定の個的存在者A(M.sg.)と、B世界におけるわれわれ特定の人間の一人B(M.sg.)との一対一の対応関係があります。 …
シェリングはすでに『芸術の哲学』(1802/03)の中で、
「絶対者の内にあっては、特殊な事物はそれぞれ自体において宇宙であって、絶対的全体であるがゆえに、まさにその限りでそれらは相互に分かれ、かつ相互に真に一つである。」
と言っているのです。 … これらの言葉が全体の文脈の中でAにおけるdh.M.pl.を意味していることは明らかです。
津田真一「如来蔵思想の本質とそのシェリング的展開」(2011)
09年の津田論文に見られるもう一つの興味深い変化は、哲学的な理論の深化を「一歩(半歩)の退行」(前進ではなく)と表現することに現れている。
01年時点の津田は、跛行的な発達史観をある程度素朴に採用しており「退行」という契機への注目は見られない。その親鸞の地点のさらに先に自らの〈開放系の命題〉さらには〈開放系の神〉の存在機制、という命題が順次出現する、そこにおいてそれまでの仏教思想史における限界が顕になる…という構図を描いていた。
インドにおいて仏教思想史は … 事態が形成する一定の幅、例えばインドにおける仏教思想史の最初の展開であるところの華厳の体系でいうなら「初発心時便成正覚」、しかも「無量劫修行」というその弁証的な対立項が形成する幅の中を順次右左に振れつつ進行する …
ロッククライミングのチムニー登りに譬えるなら、右側の「初発心時便成正覚」的局面の壁で右足を支えつつ、左足をその一段階上の「無量劫修行」的な左壁に移したのが法然、さらにその法然の位置で左足を支えつつ、右足をそのさらに一段上の右壁に移したのが親鸞であったのである。そしてその親鸞の右足を受け止めたのが〈一念の行信における横超・自然法爾〉の立場であったのであり、それがそのチムニーの最上部をなすもの、すなわち、われわれから歴史的に見られた日本仏教思想の〈尖端〉であったのである。
津田真一「日本仏教思想史における法然の「永遠に反駁を許さぬ」存在意義について」(2001)
『法華経』は生ける神としての法身の如来を説示する経典であり、〈如来蔵思想〉はそれが一歩理論化して、ということは、一歩退行して、その如来の法身の構造ないしは存在機制を説く体系なのです …
この方向は、そこから更に進んでいるニーチェの線から半歩後もどりする、というかたちで示されます。
津田真一「四諦・十二因縁説の存在論的機制とその背後にあるもの」(2009)
先述の通り、その"神の存在機制"が西田幾多郎の「逆対応」に相当する…ということを示唆するにとどまり、その具体的な機制の検討に入る前に原稿を閉じる構成においては、後期を通じて津田にほとんど変化は見られない(参照:「法然・親鸞との関係における覚鑁」(1996)、「〈終末論的実存の弁証法〉における統一としての親鸞と法然」(2016))。
(ただ、思想/哲学の運命としての「半歩の退行」という視点の導入に伴い、津田に「一人の思想」を示唆した親鸞の位置付けがやや安定するところとはなったようである。『反密教学』紙上に漏らした意図せざる失言ともいえる「(大日如来の空性に対する)阿弥陀仏の実在性・不空」「親鸞教における目的の消失」を弁証法的に回収する道筋(おそらく実際にそれを行えば理論的破綻を招いたであろうが…)を執筆当時の津田は展望していたはずだ。しかし、この点の詳細な検討は他者に譲りたい)
最後の津田真一
筆者は、2023年に次のように「津田仏教学の決算報告」を行った。
論文形態における現在最新の津田の研究報告は、「やはり、法然の〈弁証法〉的認識へと回収されねばならない。」という切実なる待望を見せて「続く」で閉じられる。
即ち、親鸞という宗教家が、究極的に法然の教導を生きることに失敗したという事実、あるいは津田におけるその学的認識をもって、次なる弁証法的展開の契機としたいという待望である。
・二世界説による運命観・成就観の全面的採用~最終的な金剛頂経の選択(『梵文和訳 金剛頂経』(2016) まえがき)という我々の知る後期津田の線形的行論のストーリーとその意義は、開放系の命題「汝は自ずから汝の父である」・「自らならなければならない」と、物語「自らの父になれなかったが、神と顔を合わせて見たサンヴァラ遊行者」との間に常に付き纏っていた乖離・矛盾を、自ら上演する過程であった。
・また、明(A世界)と無明(B世界)の同一性/別異性やその止揚表現を単純に勝論・解釈原理として宣言することなく、常に両方の側から(単なる狂気にも見える解離した表現で)じりじりと論理を明確化していった30年の行論は、結果的に如来蔵思想の図式的解明と哲学的思考への流通という大きな成果を生み出した。
・しかし、その弁証法的関係は、ある意味では、その最初の表現形態において意図せざる逸脱への短絡(円環的自己完結の構図、その論理の提示への短絡)が宣されており、『梵文和訳 金剛頂経』前書に至る道程においてそれを確認する「二重写し的な過程」であったとも読み得る。
・終末論と進歩主義の両方へ対質する「維持の論理」の構築。その実際における現前の世界の維持へと個人的な力業の遂行を通じて投企するという立論は、オウムや権力装置の手になる人為的救済を本質的に否定し得ておらず、論そのものを固定的に捉える限りでは「肯定への短絡」とも捉え得るものである。
同様に、『反密教学』2008年版における秋葉原通り魔事件への言及も有効なものとは言えない。また、在家信徒的な生の現実態を捉えたものでもない。
・ここには、津田がそれ自体は社会性を持ち得ない思想である空念仏・平常底・密教を自らの関心対象としてきたことが影を落としているように思われる。そこには、自然状態では社会性との対立構造を自明に内包する(輪廻という信念体系はその現れの一形態である)ものとしての個人生についての考察が不足しており、絶対者との関係の再構築というベクトルを指し示すことに成功していない。
『ニアヒューマン強化再生』(2023)
上の評価は、2016年の津田論文「〈終末論的実存の弁証法〉における統一としての親鸞と法然」に対する筆者の落胆を批判という形で反映したものだ。
しかし、2008-11年にわたる津田の"哲学"への痛切な志向を改めて認識した今となっては、その評価を以下のように改めなければならない。
・願成就の意味は、「衆生は法界に既に入っており、究竟とは方便である」事態という「論理的に退行した局面」と、「運命に対応した絶対者と顔を合わせて見る」という(津田自身が解釈学を用いて初めて見出したという意味で)「絶対的に新しい局面」を参照することで改めて開示される「二世界論のビジョン」にある…という解釈が、津田の最終的な立場である。
・「奸詐の神」なるフレーズは、プルシャの観念の世界におけるイデア的現成の局面(もうひとつは思想史を通じた内実の充填)を名指したものにすぎないので、初めから乗り越えられねばならない或る問いとしてあった。
力行の強度を基準としたプルシャ観念は、理論的にはLv∞⇔Lv-1の輪廻的局面における苦の不可算・爆発という潜在的可能性によって破綻が予告される。また、現実的には、個人を基礎とした社会システムの解体、いわゆる分断として表象される絶縁面の錯綜、さらには具体的な暴力や生死選別を伴う存在局面への介入によって、破綻しうる。
・そうであるのなら、我々はその「退行した局面」を現代的なそれ(ゴミ拾い(科研「環境問題と仏教-環境倫理構築の仏教学的可能性とその諸問題」報告書(2001))や、悲惨な低賃金労働(新版『反密教学』(2008) 序)に専心して励み務めること、等々…による安心)に置き換えるのではなく、「絶対的に新しい局面」の方を「自己保存を原理とするプルシャ」から一歩進んで「現在(2026年)のそれ」に定義し直さなければならないことになる。
すなわち、一人の人間の生のあり方が定位されることによってある絶対者の存在やその定義・機制が初めて明らかになる…という、異常としかいいようもないが、まさに現代のSNS/AI社会においてその可能性が臨界的に現出する「生の被規定性」のあり方を問うこと。
・津田「〈終末論的実存の弁証法〉における統一としての親鸞と法然」(2016)は、解釈学的に出現する「二世界/絶対者の逆対応の機構」を探ろうとする最後の試みの端緒であった…という理解。その"哲学的"試みは、まさにその哲学的解析のスコープを(思想史的現実への回帰、ではなく)来るべき未知の思想へと開放することで、初めて開かれたものとなるはずだ。
2008年の津田は、法華経を「法身の如来(=宇宙大の神)を原理とする宗教」と定義するが、2006年時点の津田は、その事態をより"軽率"に表現している。
『法華経』の救済論には、さらに進んで、「私たちは如来なのである」という知見の段階がある。
「T&H Project 2006/12レジュメ」
下のような言明に示される津田の「機転」から出発して、〈願成就〉思想の向かうべき先をプルシャの観念から開放された「絶対者の哲学」へと救出することが、筆者が考える津田仏教学の「最後の意義」である。
その不安と申しますのは、私がこの〈願成就〉ということを、それが一つの設定、言うなればPositionではなかったのか、と疑った、その疑いから生起したところのものでした。
この「設定」というのは、まず、それが人間による設定であることを意味しております。 …
実は、〈願成就〉ということが、その様な意味での人間的な設定である、ということは、私の〈閉鎖系の仏教思想史〉からするなら、最初から当然のことであったのであり … また、その仏教思想史が〈開放系〉に移行した後では、それがそのまま件の「目的論的理性」、すなわち〈法華経のゲニウス〉の設定であることは、むしろ、さらに当然のことと思われなければならなかったはずなのです。ですから、〈願成就〉が仮に設定であるにしても、私はいかなる意味においても不安を感ずる必要はなかった。しかし、現実には非常な不安を感じた …
言葉を変えますなら、私がこれまで後生大事に抱え込んでまいりました〈願成就〉ということが、実は単なる一回だけの、使い捨ての概念装置に過ぎなかったのではないかと疑っていた、その疑いに起由するものであったのだ、ということです。
しかし、一旦そのことに気付いてみますと、その不安はまたしても「コロンブスの卵」式に解消されます。
津田真一『反密教学』新版(2008) 序「『法華経』・願成就の哲学」
一人の人間が人生を生きることは、それを然らしめるA世界の主体=絶対者においてさえある意味で致命的なことであり、人は生まれたことによってではなく生きることによって生まれて死ぬのだ …という「業論と仏法の本義」を現代において改めて認識させるものとして、「津田仏教学以後」を生きる我々の仏教思想は提起されなければならない。
「『絶対者』と『彼に然らしめられた結果としての人生』が区別できず、しかも一人が生きたその生の影響は全員に及ぶ、異常でありながら密教の本義に沿う、目的のない体系」が、一つの構想として与えられる。


"最後"以後の10年間。「半歩の退行」
もう少し続ける。「津田真一の行論」の見取り図について。
・「ある信仰者の生を事実、根源的に規定していたはずの事態」に鉤括弧を付して哲学の対象とすることには、その"事態"を歴史的実体から解放することと、その"解放"=哲学的表現が現実に生きられた思想との無限の距離を発生させること、その両面の意義を有する。
ここにおいて(対幻想的に表現すれば、)哲学者と宗教者は半歩の退行と半歩の前進へと運命的な分離を果たす。しかし"哲学"において、事態はそれだけに留まらない。
自らの生と、その「一歩以上先の」事態とが最早いかなる意味においても無関係であることを認識し、(かつて津田が原人プルシャを「サンヴァラ行者の終焉に際して顔を合わせて見る宇宙大の絶対者」と規定したように)ある絶対者の様相を「唯一人の想像をもって」構築する局面がある。
そして、哲学の真の対象はその"想像"それ自体の機制であるはずだ。
・2009年以降の津田が全ての論文に未完という結語を付さざるを得なかったことには、彼の学問にとって深刻な事情があったと筆者は考える。
それは、学者としての運命の中にイデー的な絶対者を自作自演するという所作のためではない。Lv3の空性における絶対者は、プルシャの生命と身体という完結した絶対者観では表象し得ない、という問題である。
津田がプルシャ=奸詐の神の観念に留まるかぎり、そこには少しも人間の生を規定するような…あるいは無限の虚空へと人を蹴り飛ばすような契機…砕けて言えば「希望」たり得る思想は存在しない。そのことは本節ですでに述べた。
ならば、そこには一つの倒錯した、かつ時代的な特徴を有する目的性が導入されるはずである。すなわち、Lv3の空性が"本当に"存在する(Lv3の空性を信じることと狂信は紛れもなく同じだ)ならば、それは如来と我々の視点が反転して一切智智が現実に開放され、そこにおいて歴史が終焉する…という宇宙主義的なビジョンをとって表象されるはずである。
・2016年発表のエッセイで津田は、自らの神の形姿を「歴史における自己告知」から引きずり出し、実現された思想や信仰においてではなく、自らの学問の内において画定しようという(筆者の曲解でなければ)英雄的ともいえる意志を宣言している。
この二、三年は仏教の根底に一貫して存在している論理を〈終末論的実存の弁証法〉という言葉で捉え、それを最良の反面教師であるカール・バルトの神学と対比する作業を進めてまいりましたが、今年度からはそれをまさにその如来蔵思想、さらに『法華経』へと遡ってその哲学的形姿を画定する作業に入りたいと思っております。
津田真一「東方学院・私の如来蔵」(2016)
しかし、同年以降の津田は公の場で一切論考を発表しなかったから、津田の行論が直近の10年間で何がしかの進展を成し得ていたとして、我々がそれを直接に知ることは叶わないだろう。
九鬼周造を"救出"する
最後に、「絶対者の哲学」の一つのアポロギアとして、ここまで議論を牽引してくれた(?)九鬼哲学を改めて"救出"することを考えてみたい。
田中久文は、九鬼偶然論の論理構成の曖昧さを批判する論文において次のように述べている。
「垂直的のエクスタシス」では、今の瞬間を無限の深みをもった「永遠の今」として掴むことこそがめざされている。そこになぜ、「主意主義的内在的解脱」なるものが必要となるのであろうか。それは「永遠の今」を掴むための方途なのであろうか、あるいは「永遠の今」が掴めない時の代償行為なのであろうか。 …
こうした「永遠の今」を求める立場と、無限の努力を要請する実存的な時間論とは、その後の九鬼哲学のなかでずっと共存することになる。 …
九鬼は本来直接の関係のなかった回帰的時間論と偶然性の哲学とを接合しようとするのであるが、その接合点に当たるものが「運命」概念である。 …
ただし、両者には大きな違いもある。ポンティニー講演での回帰的時間論には、『偶然性の問題』のような「形而上的絶対者」なるものは想定されていない。 …
『偶然性の問題』では、「形而上的絶対者」なるものが想定されており、「永遠の今」は単に回帰的時間のなかで考えられているばかりでなく、「絶対者」の自己限定ともいえる意味をもたされている。すなわち、「絶対者と有限者とを繋ぐものが運命」であり、それが「永遠の今」において会得されるというのである。
田中久文「『偶然性の問題』への疑問」(2017) 『理想 (No.698) 特集 九鬼周造』収載
田中は、偶然性をめぐる田辺元との往復書簡によって批判されるような九鬼哲学のダイナミズムの欠如について、次のような処方箋を提示している。
一つは偶然性の哲学から「形而上的絶対者」の要素を取り除くことである。そもそも、元来の回帰的時間論にも、また本論文では触れられなかったが『「いき」の構造』にも、「形而上的絶対者」の要素はない。 …
九鬼があくまでも「形而上的絶対者」を立てて問題を解決しようとするならば … 『偶然性の問題』には「必然性」と「偶然性」という様相論に基づく対立軸と同時に、「有」と「無」という存在論的な対立軸があることが分かる。 …
「超越的目的性」に到達するために、「人間実存の地平に於ける目的性」において努力する。そして「超越的目的性」を実現したと思った瞬間に、一転してゼロ地点に立たされ再び努力が開始される。それは無窮の営みであるが、そのすべての営みの根底にはつねに「大乗的無」が働いており、その意味ですべての瞬間が「永遠の今」においてあるともいえる。
田中は津田が『反密教学』において示す「方便を究竟とする」大日経思想と似たものを提示している。しかし、むろんこれは現代に意味を持ち得ない。生のすべての決断はすでに集合知に先取されているからだ。
私たちはすでに「人間実存の地平に於ける目的性」においてではなく、運命的に現成する「超越的目的性」をあからさまに意識して努力する(例えば、SNS社会を所与として受け入れ、インプレッションの獲得を目指して行動する等)以外の選択肢を有していない。
哲学が私たちを「絶望から救い出す」役割を持ちうるとしたら、その「超越的目的性における努力」において現れる機制、すなわち「絶対者の自己限定による生成」それ自体を問題とし、その原理を究明することが求められる。
(終・「輪廻防衛史」へ続く)
九鬼周造から津田真一 ⑤
津田仏教学を再検討する。
dharmaの縦横の両極構造
1980年代末から90年代前半にかけての津田真一は、釈迦の悟り体験の内証を述べた初期仏典のウダーナについて、玉城康四郎のダンマ概念の影響を受けた検討を試み、無明から明へと転換した世界認識を〈女性単数のdharma〉、釈迦の悟りの体験において見られた衆生生死の実相を〈男性複数のdharma〉、両者の総合を〈中世単数のdharma〉とする「dharmaの縦横の両極構造」の図式を提起した。


二つ前の記事で、九鬼哲学の読解から発して哲学のスペクトラムの図式を作成した。筆者の文脈に沿って津田の世界理解を図式に当てはめるとどうなるか。
・無明とは我々の生存する経験世界であるから、準存在の極に充当する。
・男性複数のDharmaは、それが一望のもとに見られたものとして対象化されていることが重要である。これを時間的極限において縮減された歴史として存在の極に充当する。
・明の極は定義的に哲学の意味のある対象たり得ず、かつEの超過混沌に対しては対極的な性質を有するから、その垂線上に配置することとする。

F.sg.(女性単数のdharma)は、現在を想起とする説である。
「貴方がさとりを得たとき、斉藤さんや鈴木さんは実在しますか?」「あ、私の想念でしたね?」「実在しない人が同一人物かどうかを貴方は心配しているのですか?貴方の想念は、貴方がさとりを得る以前思っていたことと、そのまま連続しているし、貴方が知っていたこと、貴方がこうだ、とわかっていることもそのままで、変わることはありません。だから、人は人、世界の成り立ち、世界の秩序、世界の規範は変わりません。変えられません。」
「貴方が人として知ってきたことを、何一つ変えられません。」「じゃ、仏の力というものはないんですか?」「仏はただひとつの目的のために現れたのです。それは、誓願の達成です。」
『半覚斎閑時種』2007年02月01日
このように、津田仏教学における悟りの構造と筆者が九鬼の読解から生成した図式を撚り合わせることで四元からなる図式を考えた。
このとき、津田においてE(爆発)の極はどのように認識されているか。
「なぜそもそも或るものが存在して、なぜ無は存在しないのか」 …
ヤスパースの言う所によるなら、「パルメニデスによって考えられ、ライプニッツによって言及された」この問いを、シェリングは意識して「哲学することの根本の問い」とし、その「意味」を「彼の人生において繰り返し問うた」のです。 …
要するにシェリングのこの「問い」は、まさにわれわれ人間の思考の「極限」をなしているもの、われわれの哲学的思考がそれに突き当たったら必ずはね返される壁、その壁に突き当った、そして、はね返された、という意識すらないままに必ずはね返されている眼に見えない壁なのです。
津田真一「四諦・十二因縁説の存在論的構制とその背後にあるもの 仏教思想の“哲学”的叙述の試み」(2009)
Lv0~3の図式
津田は2011年の論文「如来蔵思想の本質とそのシェリング的展開」において、シェリングへ言及する文脈でパルメニデスの問いに言及し、九鬼がシェリングから継承した原始偶然の観念が、カオスの観念と不離の関係にあることをハイデガーを引いて指摘する。
まず、神がこの世界を作ったことが、その原始偶然なのだ、ということになる。そして次に、その神が、他にも造り様があったのにこの様な世界を造ったのが偶然なのだ、という考えがでてきます。 …
そして、さらに言うなら、 … この世界がその神自身の「身体性と生命」に他ならないところのものとして現に在る、そのことが「原始偶然」なのだ、ということになる。
津田真一「如来蔵思想の本質とそのシェリング的展開」(2011)
カオスとは、世界全体とその理法についての特異な先行投企を名ざす名称である。ここで再び、いやここでこそもっとも強烈に、世界をいわば巨人化された身体として表彰するひとつの〈生物学的〉思惟が働いているかのような趣が現れる。この巨人化された身体の身体性と生命がそのまま存在者全体をなし、こうした存在が〈生成〉として現象せしめられるというわけである。
ハイデガー、藤田宗人訳『ニーチェ Ⅱ』(1986)
上述のハイデガーのカオス概念への着目とプルシャ観念への接続はすでに「仏教における愛の形而上学」(1995)でなされていたものだ。このようにして津田は『アーラヤ的世界とその神』(1998) で広く知らしめた四分の一を地上の万物、四分の三を天界の不死とする原人プルシャの「身体性と生命」の観念を、九鬼=シェリングの原始偶然を統制する原理として再び召喚する。
そして、後期津田における「四分の一と四分の三」という配分は、もう一つの文脈によって強化される。
2008年以降の津田は、仏教における空性の思想(かつて津田「空の世界と空的世界」(1989)によって「空の思想=大乗、空的思想=釈迦仏教」と弁別された思想群)を4つのレベルの階層構造で理解する図式を提示する。
すなわち、レヴェル・ゼロからレヴェルⅢまでに区分される四つの空性思想と、そのうちのレヴェル・ゼロ~Ⅰのうちに組み込まれる「dharmaの縦横の両極構造」の構図、そしてレヴェルⅠ~Ⅲの空性思想が示唆する二世界観、によって構成される宗教思想である。
(1) レヴェル・ゼロの空性。これは、私の用語における〈男性複数のdharma〉の空で、これが上に述べた通俗理解のレヴェルにおけるもの・ごとの空、すなわち、いわゆる無自性空です。これがなぜレヴェル・ゼロなのかと申しますと、それは私たち人間の生(Leben)に何らの規定性をも及ぼすことがないから、つまり、思想的に無意味であるからです。
(2) レヴェルⅠの空性。これは同じく〈女性単数のdharma〉の空性です。すなわち、世界の存在性の本質として唯一普遍の〈有〉、Sein,Seynであるところの無明(むみょう)が、それが世界の本質として唯一普遍のSeinであるにもかかわらず、しかも、個々の人間の〈現法的梵行〉、一生性的貞潔を保つ、という実践を通じて、それぞれに明(みょう)へと変る、または、それと同じものである渇愛(かつあい)、四諦のうちの集諦であるところの渇愛が滅する、ということです。
(3) レヴェルⅡの空性。これは同じく〈中性単数のdharma〉の空、すなわち、大乗仏教の空、菩薩乗の空です。大乗仏教の典型である華厳世界の例で申しますと、この現実世界(先程申しました世界)に棲むわれわれ人間のうちの誰か一人が、その世界と対応する超越的な世界、すなわち、「普賢行のマンダラ」、あるいは「一切菩薩行のマンダラ」と規定される華厳世界・普賢法界の理念的な内実であるところのその「普賢行」・「菩薩行」の一つを行じたその瞬間に、「荘厳」として表象される「普賢行」・「菩薩行」が無尽に集ったその巨大な総体(マンダラ)としてのその理想世界が、その一人の人の、この現実世界(世界)におけるその行為(それがHandlungです)に即して一気に現成する、そして、その無時間的に現成した理想世界(世界)は、この現実世界(世界)におけるその人一人(いちにん)のその行為(まさにTatとHandlungの同一としてのTathandlung、事行)の永遠の持続によってその存続を荷われる、というものです。
(4)レヴェルⅢの空性。これは世界(〈中性単数のdharma〉)を包越してその意味(Sinn,ニーチェのいうSinn)であるところの〈男性単数のdharma〉の空です。これは、〈大乗以後の仏教〉としての『法華経』の、さらには所謂〈如来識思想〉の段階の空、〈仏乗〉の空です。『法華経』は生ける神としての法身の如来を説示する経典であり、〈如来蔵思想〉はそれが一歩理論化して、ということは、一歩退行して、その如来の法身の構造ないしは存在機制を説く体系なのですが、その〈如来蔵思想〉で申しますと、「如来の法身」として「過恒沙の仏法」に満たされた世界が、その完全な全体性において一切衆生のそれぞれ一人一人の身体性の中に蔵されている(「一切衆生は如来蔵である」)という思想です。
『四諦・十二因縁説の存在論的機制とその背後にあるもの』(2009)
4元+2元のレベル図式
筆者は以前に刊行した同人誌(『ニアヒューマン強化再生』)にて、津田真一の空性の4段階のレベル図式を拡張した「6つのレベル図式」を作成した。
結論先取となるが、筆者は今回の記事で「下三角形」の図式を作成した時点から、下図の図式への整合を目指して理解を組み上げてきたということになる。

公理的輪廻論
筆者はE=Lv∞的な事態(超過混沌)を「輪廻思想の公理」とよぶべき断案によって"割り算"することにより、諸々の輪廻思想をバリエーションとして導出できるのではないかと考え、『仏教以後の何か』(2018)にて萌芽的な議論を行い、『ニアヒューマン対耐空震』(2024)で詳しく展開した。これを大袈裟に公理的輪廻論と呼称しよう。
輪廻ということの最も簡潔な定義を与えることが可能であって、それは次で表される。
1.あらゆることは可能である。
この定義を採用する場合、付随して次のことを言うことができる。
2.全ての世界認識は、その事実認識の端的な言明のバリエーションに他ならない。
『仏教以後の何か』(2018)
公理の数は2024年のバージョンでは2→3に増え、第3公理を2つのパターンに分けることで先述の6つのレベルの世界観の全体をカバーするように構成される。
1 あらゆることは可能である(Lv∞…4象限):超過混沌の原理
2 輪廻思想の外延は全人間の全思想表現である(Lv±1):個体原理
→内包の先行:(Lv-1) …苦の爆発則
→外延の俯瞰:(Lv+1) …Lv0の排除
(Lv0からはLv+1であるか否かは択一/Lv+1からは様相の爆発のためLv0である確率は0)
→仮和合主体の存在…常住しない原子(色)以外が業・輪廻の主体となること。
3‐1 人は死んでも人の意味を失わない (Lv+1: 業思想、自己AB二世界の存在論・救済論)
3‐2 人間は存在しない (Lv-1: 事実性の要請、大小の単なる蘊・集合体・群体・断続体他に錯認される存在主体)公理1でLv∞の論理的アナーキズムを導入し、公理2で個体概念を導入して思想的意義を与える。公理3でLv+1またはLv-1への局限を行う。このとき、体系の無矛盾や正則性はもとより前提されていないから、Lv+1からLv2,Lv3が派生するのを妨げない。
3つの公理は三法印(無常・苦・無我)に対応させることが可能である。なお涅槃寂静は「法印(仏教を他宗から区別する特徴)」ではない。
すなわち、Lv∞:無常なる混沌、Lv-1:苦なる爆発、Lv+1:無我なる業 となる。
この3つの原理が人間の世界認識を支配しているという臆断が仏教の前提にある。
『ニアヒューマン対耐空震』(2024)
公理的に表現された6つのレベルの世界像をもう少し平たく表記すると、次のようになる。
公理1 )(=Lv∞)あらゆることが起きる。
公理1' )(=Lv0)ただ1つのことが起きる。
公理2 )(=Lv±1)あらゆることが起きる。その解釈の表現が人である。
公理3a )(=Lv+1)人は死んでも人の意味を失わない。
公理3b )(=Lv-1)人の意味は存在しない。
公理3a' )(=Lv2)全てを含む意味が存在する。
公理3a" )(=Lv3)全ての意味を含む価値が存在する。
〈より形式化した(?) バージョン〉
公理1 )(=Lv∞)諸々の様相の集まりが存在する
公理1' )(=Lv0)諸々の様相はただ1つの様相により表現可能である
公理2 )(=Lv±1)諸々の生死の様相の集まりが存在する
公理3a )(=Lv+1)諸々の生死の様相は業により表現可能である
公理3b )(=Lv-1)諸々の生死の様相を表現可能な業は存在しない
公理3a' )(=Lv2)諸々の生死の様相は一つの生死により表現可能である
公理3a" )(=Lv3)諸々の生死の様相は一つの生により表現可能である
筆者は当初、Lv0を決定論的世界像そのものとして構想していたが、すでに前々回の記事で検討した通り、Lv0は時間的極限から世界を観ることに相当する。
Lv0が独自に有する全体性・一元性の感覚は、高橋里美が言うところの弁証法の極限(=時間的極限)=包越の原理としての愛に由来する。
Lv1~3は二世界論の機制を基本として有するから、哲学的一元論とは基本的な部分で馴染むことがない。
Lv+1とLv0の違いは、外観の違いに囚われなければ、次の一点に煎じ詰められる。
Lv+1の存在者が未来を生きるのに対し、Lv0には現在だけが存在する。Lv-1の存在者は未来ではない対象を未来と執着する。
他方でその一点の違いから、迷の極に対して同一・同時であるLv+1的世界観と、歴史的啓蒙的目標として設定されるLv0的世界観という時間軸の直交が生じる。
Lv∞、Lv±1のいずれも全体性の観念を有しない。Lv-1にとっては(Lv+1にも?)それは前提的に不可能である。Lv0のみが全体性の観念を要求し、その範囲を拡張する運動性を導く。この事実は我々にとって重大である。
現状、Lv+1にとって全体性の存在は神話的にのみ言及されている。後世の仏教思想のLv2,3への展開は全体性の観念を「回復」ないし獲得・奪取しようとする衝動に動かされた運動と捉えることができる。
全体性の獲得はまた性と輪廻についても重大なテーマである。
『ニアヒューマン対耐空震』(2024)
Lv2, Lv3の空性については、仏教思想史上の意義とは別に、次のような図式的解釈が与えられる。
無明(Lv-1, Lv∞)と明(Lv1)による構成される「dharmaの縦横の両極構造」を"父"として俯瞰する人格神の原理=「大乗以後の仏教」において、Lv2, Lv3の空性は以下のようにLv1の救済を架上する機能を有する。
Lv1: Lv-1の対治/Lv0の救済
Lv2: Lv0の対治/Lv-1の救済
Lv3: Lv∞の対治かつ救済 (=密教体系の無目的性)
伊藤邦武が九鬼時間論の検討において見出した「縮減」の原理は、公理的輪廻論ではどのように表現されるか。
・存在を意味に同置できる範疇に縮減するとa’が出来する。意味を価値に同置できる範疇に縮減するとa”が出来する。
・縮減は、価値や意味のスコープが外部に拡大することによって起こるのではなく、辺縁の意味や存在が縮退して内の界面に貼り付くことで起こる。
a系列ではこの掬い取りと縮退により存在と意味が変容する。この事態が輪廻における苦の生起そのものと同じだと理解できる。・虚無は創造しない。虚無の上には何も乗っていない。
構想された力の消去に吊られること(行)が、時間の輪廻的機制への縮退であり、消去の核が虚無であり、像が苦の感受である。・自我は独存しない。自我の前には何も開闢しない。
対象化による知覚の消去に吊られること(名色)が、知覚空間の身体界面への縮退であり、消去の核が自我であり、像が苦の原因である。
輪廻が成立する領域が Lv-1⇔Lv∞ であることについては、次のように説明され得る。
・Lv0⇔Lv∞の領域で輪廻というものが実質的に成立しない本質的理由は、そこでは思考領域の絶縁された輪廻的存在が実質的に存在しておらず、代りに大宇宙年のような想像が典型的形式として成立してしまっていることにあるという事実的根拠において説明できる。
換言すれば、苦が輪廻の成立根拠であるという言い方ができる。
(なお、明=解脱は業の成立根拠である。)
公理1~3による圏域は、そのまま仏教思想の射程を構成する。
人間は輪廻思想の表明であるという輪廻の第2公理は、釈迦が無限の因果系列を眼下の空間写像として認識したその時に、時間と空間の双方にわたる存在者の機制として成立したのであり、第3公理B=人間は存在しない の成立を含めて、その歴史的事件の支配下にある。
そして、人間は単に輪廻的存在であるのではなく、輪廻思想の表現である、というこのことは、仏教という宗教の核心でもあるように思われる。
上記のような検討とは別に、輪廻思想とはいかなるものでありいかにして生じたかを理解することが輪廻を理解することと同義である、という近代的信念に基づくディシプリンがたしかに存在し、それ自体は現在も支持に値するものだが、その実践はかなり早い時点で停止していると評価できる。

余談
公理的輪廻論を別の常識的な枠組みと比較するため、『多宇宙と輪廻転生』(2007) 等で可能世界論や哲学的意識論から出発した輪廻論を展開している三浦俊彦の議論と対照する。
三浦は、渡辺恒夫の遍在転生論や中観仏教的世界観を唯心論的一元論(意識とは独立に外的物理的実在は存在しない)とし、日常経験に整合的な科学的実在論を物理的一元論(意識とは独立に外的物理的実在が存在する)として、前者を批判する文脈で物理的実在論の枠組みを次のような原理で表現している。
a マルチバースから成る時空間は、無限の広がりを持つ。
b 私であることの必要条件は、意識であることである。
c 意識が私であることの十分条件は、「現在のこの意識」と内的連続性または外的連続性を持つことである。
d 私が存在を保証されている時点において、私は余剰に存在する必要はない。aにより、一度でも生じた質的現象は、無限回繰り返し生ずる。cにより、常に私は存在する。つまり私が存在しない時点はない。 … dにより、「現在のこの(私の)意識」とはまったく内的連続性を持たないいわば「別人の意識」に「私」は転生する必要がない。 … 生誕から死去までの、全く同内容の経験を永遠に繰り返すだけである。
以上のような「トリビアルな輪廻転生観」こそが、物理的実在論からの帰結となる。
…
「トリビアルな輪廻転生観」を帰結するのに必要な前提は、実はdだけである。
そしてdは、唯心論的一元論と物理的実在論が共有する前提でもある。三浦俊彦『人文死生学宣言』(共著、2017) 第7章「一人称の死」
原理系(b,c,d)とくに原理dは、「私」を起点としている点でごく一般的な意味での輪廻観と乖離しており、その意味で「トリビアルな輪廻観」は九鬼の回帰的時間論と同様に輪廻思想のほぼ全ての系を除去しているといえる。
一方で、上述の原理系(b,c,d)は先述の公理系(1,2,3-2)=Lv-1 との整合性を有する。人の意味を審級する存在が無い(=一元論)からである。
逆に、原理系(b,c,d)が公理系(1,2,3-1)=Lv+1 と背反することは自明だろう。
このことは、Lv+1の空性の認識に基づく輪廻観とLv-1の認識のもとで展開される輪廻観は、存在論的に全く異なる構成をとり得ることを示唆する。
九鬼周造から津田真一 ④
九鬼周造にかこつけて様々な論者を引いて縷々のべてきたが、ここからは筆者が2023~24年に制作した同人誌で取り上げた精神世界系の話題に対して、九鬼時間論とのロジック的な連関を意識して再言及を行う。
本節のみ、一旦胡乱な話題が続くのを了承いただきたい。
認識変更
いきなり胡乱に胡乱を重ねて恐縮だが、「引き寄せの法則」の歴史については仏教系カルトとして有名な親鸞会のサイトが手際よくまとめているから、そちらを一瞬だけ見て頂ければと思う。Wikipedia等でニューソート運動の歴史を勉強しても良いが、多分時間の無駄だと思う。
筆者が注目するのは、「引き寄せの法則」から派生した自己啓発言説についてである。
有神論的な臭いを剥ぎ落とし、核心的なロジックだけを引き出した自己啓発言説の一つに、いわゆる「認識(の)変更」がある。
そして、そのロジックについてある程度の批判を試みてみたいというわけである。
仏教系ブロガー・半覚斎(後に教悦と改名)が2010年前後の数年間に公開していたブログ群は、サービス終了により現存していない。筆者はその全てのログを保存しているが、本人は健在であるから勝手に公開をするわけにはいかない状態にある。
筆者が仏教あるいは輪廻思想の理解を形成する途上で彼より被った影響は多大だったが、今は問題を限ろう。彼はこのような投稿を行った。
2008/3/14
ささいな事で始まったきびしい現実は、どうなったか。
興味があるのは、その点だろう。
長い説明は省こう。
私は、私がかつて「最強の法則」と名付けた手段によって、一気に解消した。
2008/3/15
かつて、最強の法則に気付いたとき、私はこれをどう使えばいいのだろう、と思った。 …
そして封印してきた「最強の法則」を試したのだ。
結果はいうまでもない。
何せ「最強の法則」なのだから。
『半覚斎閑時種』
筆者は、2023年の段階ではその内容を一方的に推測・再現するに留まっていた。
①この方法の使用法を実感的に把握するには、機縁に加えて内的な必要性が満ちることが要求される。そうでない期間においては忘れられている。
②この方法を多用することは、後述の理由により望ましくない。
③多くの場合、一度使用できればそれによる精神への副次的影響が大きく、類似の状況に対する十分な効力を発揮すると思われる。従って、多用する機会を失わないことに配慮した伝達方法を検討する必要を認めない。
筆者の理解する「最強の法則」の内容は、
「忌避すべき事態を構成する既知の因果関係と自己を同一視することをやめ、都合の良い仮想的因果の存在を想定し、『それが現実である』という結果の影響のみを心的状態として想像・取得し、そこに自己を定位すること」
である。つまるところ「時間的トリップ」と言っても構わない。
『ニアヒューマン強化再生』(2023)
その後筆者は2024年に「認識変更」の存在を知り、半覚斎の発想の元ネタをこれと断定する内容の記述を行った。
「認識の変更」は、願望実現が当然のものとなる一種の哲学的世界観への再帰的没入を目指すという認知メソッドであり、日本では2010年代後半から流布されている。ニューソート思想に源流を持ち、ジェームズ・アレン『原因と結果の法則』(1902)に大成される「引き寄せの法則」メソッド群から派生した認知リフレーミングの手法の一種といえる。
2ch掲示板のやり取りを基に作成され、オンライン上で頒布されている文書『ザ・チケット』は、国内の「認識の変更」界隈では基本文献として認知されている。
「引き寄せの法則」と同様の願望実現トレーニング、「今ここでは何も起きていない」という見方の変更によるエゴの手放し、「願望がすべて実現している」という認識操作による条件付けの放棄、愛・喜びに浸りきる、等々のメソッドが紹介され、これらによって意志的努力ではなく単なる意図だけがある生き方が「半自動的に」開けるという展望を示して結ばれる。
『ニアヒューマン対耐空震』(2024)
言っておきながら恐縮だが、2026年現在、筆者は「認識変更」言説の歴史的系譜についての知見を持たない状況にある。
雰囲気を想像するよすがとして、精神世界ウォーカーであったことを明かしている半覚斎が「禅をかじったアメリカ人の主宰するセミナー」に参加した時の様子を引用する。
2007/6/8
ところで、例のアメリカ人主宰のセミナーですが、いったい何を教えて十数万円の対価を得ているのかをご紹介しておきましょう。 …
『あなたの継続する不満は何でしょう。
人は、常に考えて生きています。
自分のストーリーを作り続けて生きています。
起こっていることだけを見ずに、ストーリーに生きています。
つまり、自分が中心です。
自分の考えが優先するから、不満が発生します。
人はあらゆる時、起こっていることだけを見ずに、自分の考え・解釈に生きています。
その考えも、完了と不完了という解釈にわかれます。』 …
『不完了にパワーはありません。
完了には、愛と調和とパワーがあります。
勝手にエネルギーが入ってきます。』 …
彼女は、誰かが「何かに私は立場をとる」、と発言すると、「意図てきー」と言って、拍手します。
言葉が変で、それだけでも気分が悪くなるうえに、内容もじっくり考えてみると、何だか徐々に気分がわるくなるようなものです。
『半覚斎閑時種』
筆者は氏と長らく連絡を取っていないため、これが萌芽期の「認識変更」言説の現場を示しているらしきことに気付いたものの、直接の確認は行っていないことをお断りしておく。
実際の「認識変更」言説については、Youtubeに動画を上げているゆっくり動画業者やセミナー主催者もあるが、先述の通り2chスレッドから派生した『ザ・チケット』(2008)にそのロジックの大要がまとまっている。これまたPDFの有料頒布という形式であるから大変紹介しづらいのだが、章立てのみ引用しよう。
序章
第1章 認識の変更
第2章 現実変更のメソッド
第7章 本当のチケット108『ザ・チケット』(2008)
3-6章は実際に書かれることなく終章に飛ばされるというギミックによる自己演出がなされている。「こういうところ」に対して筆者はネガティブな感想を持つ。
同書の概略としては、願望を「望みが叶うという事態」と「望みがすべて叶っている事態」の二段階に分け、
・願望を意図して無意識の領野へと手放す認識変更の方法論、
・「無意識の作用」により願った事態が自動的に達成されるという理論、
・終章では「メソッドに依存した状態」からも自然に解放されるという保証、を小説的演出を用いて説いている。
最初に、筆者の感想ベースの見解(≠批判)として、次の2点を挙げておく。
(概要)
・認識変更の技術はなるほど実在し、ある程度は機能するだろう。だが、解釈は誤っているのではないか。
・認識の意図的操作の本質的困難性について、無視したり、可能だと強弁したり、無理にポジティブに捉えたりしている。
(1)実践的評価
批判的検討のため、肯定派にも批判派にも言い訳の効かない状況…すなわち「認識変更」メソッドの他に頼るべきものが一切ない状況…を考えてみよう。
筆者は次のような評価を下す。
・願望が実現したり思考が現実化したり全くしないし、何も引き寄せられないし、認識は変更しないし、当たらないと死ぬ状況でも宝くじは当たらない。
・だが、思考が常に迂回し拡散することで人格が不可逆に変質し問題が問題ではなくなることが多々あるため、人生の薬として(良くも悪くも)効果はある。
・ただし、"薬"を乱用せざるを得ない人間が自然な流れとして乱用を続けた場合、そのツケが無いとはとても考えることはできない。
(2)理論的評価
認識変更という言説そのものの問題については、次のように考えている。
・認識変更の内部構成においては、理論付けが間違っているのは、無意識の働きが認識される必要があるという廃棄されるべき前提に、その言説を「今」経由することで必ず回帰する構造になっていること。
二段階の願望のいずれにもそれが適用されざるを得ない、そのことを第七章で有耶無耶にしている。
・認識変更の外部構成においては、Ticketの章構成自体がトリック…という簡単な種。
・(聖書として呪物化されることを要求しようとしまいと)別にこのような陥穽を外しても理論は構成できるし、知的誠実を期するならばそうすべきなのだ、ということに気付けない者を対象としている。
・具体的には、例えば次のようにしたって良いのである。
こうなった理由はあるし、ないなら何の問題もないという答えがあるだけ。
エゴがあろうがなかろうが、偏執が無いなら問いの必要すらない。ただ何もしていない人がいるだけ。
(3)余談
・現在に至るまで認識変更を含む引き寄せ系の自己啓発セミナーや右派系自然派運動がマルチレベルマーケティングと深く繋がっており、半覚斎がその世界にも深く関与していた事実にも言及しないわけにいかないだろう。これは氏自身(本業はタクシードライバーだった)がブログで語っていたことであり、子供だった筆者は無論一切立ち入ることはなかったため、実際の氏がどの程度「養分」ないし「胴元」の側だったのかは知る由もない。
・認識変更に類似したニューソート系の自己啓発技術自体はテックリバタリアンの勃興時にも盛んに流布されたところであるから、社会的にもアクチュアルな問題であるのはたしかである。何某かの問題意識をもって追究したい読者の方はぜひ試みられたい。

種脱相対
さらに危うい話になる。念のため言っておくが、筆者は本ブログの記事に登場するしないにかかわらず、マジで何の団体とも関わりを持ったことはない。
半覚斎氏はまた元創価学会員でもあり、日蓮正宗からの破門(1991)を機に同会を脱会したという経緯を明かしている他、その仏教論も法華経の解釈(きわめて独創的ながら、日蓮正宗教学の影響も色濃い)が中心となっている。
もうひとり、筆者に甚大な影響を及ぼしたところの津田真一の読者であれば、その仏教学における法華経の重要性はご存知であろう。筆者は津田の行論を20年近く追い続けているものではあるが、一方で半覚斎の思想的源流に相当する日蓮正宗の教学について興味を持ち調べたのは、氏がブログを停止してから実に10年以上後のことであった。
富士門流わけても大石寺系団体の教義が既存の日本仏教ないし日蓮宗に対して"革命的"であること、あるいはそのようであることを企図して整備が進められた歴史(いわゆる種脱相対、の確立)を有することは、その全てが御書や本尊等の事実問題に帰せられているうえにその根拠が極めて怪しい、といった"突っ込み"を脇に置き、その成立史と日蓮系諸宗における教学の布置それ自体を眺めれば自明ではあろう。
末法の下種法華経の教主は釈尊でなく大聖人であり、下種の法は文上脱益の一品二半でなく、文底に秘沈された内証の寿量品たる下種の一品二半で、その所詮の法は本因名字の位に住する凡夫即極の大法、境と智が一如する妙法蓮華経である。
https://honmyoji.sakura.ne.jp/hondo/%E4%BA%94%E9%87%8D%E7%9B%B8%E5%AF%BE%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/
その"革命性"の内実を筆者は次のように整理する。
・言説の外部構造としては、外部の原理(御書、本尊論、末法下種論)による内の救済原理の恒久的変更という、脱歴史的・革命的発想。
・言説の内部構造としては、釈迦仏教における救済論を二重に”縮減”することで成り立っている。
釈迦仏教の本質を「現在を想起と見ること(世間虚仮)、に救済を見る」にあるとし、
法華経の本質を「喪失された仏塔、の発見=物語ること、に救済を見る」にあるとし、
それらの歴史的条件がさらに喪失された場における「"本仏の誓願"の発見=題目、に救済を見る」。
なぜこれらを取り上げるか
それは、これらの言説群に「現在性への注目」と「二重の空論」という点で共通するものがあるように思うからだ。
・現在性の観念は、「歴史的始原における形態の喪失」と「神力(誓願力=菩薩の法界)による包囲の対象」という時間的・空間的な二重の性質を有する。
・そのため、言説としては「喪失の確認と、あるべき形態の仮構」をもって、再びの注目を喚起するという形態をとる。
・加えて、そのような包囲の認識(=俗人における懸念)を消去するために「構築された放念」を与えるべく構成される言説が周囲を取り巻く。
筆者のようなぼんくらは、このような構成力に対しては(宗教思想として評価するかはともかく)驚嘆を覚えないわけにはいかない。
その上で、その先のある可能性について考えてしまう。
強化再生とは、「人格/世界(主観的現実)」という輪廻の主原理をヌミノーゼによって否定する構想である。
かんたんにいえば、コロナウイルスの変異にとうとう対応しきれずに、むしろ人々が軌を一にして対応を試みたことによって、人類は滅ぶという発想である。 …
「下方」にあるとは、法華経の第十五従地涌出品「是の諸菩薩は身は皆金色にして三十二相無量の光明あり、先より尽く娑婆世界の下、此界の虚空中に在って住せり」から来ている。筆者は、 … それが超越的実在の露出として待望されることこそが、ヌミノーゼの本質を示していると解釈している。 … 文底秘沈という驚くべき発想は、神話のその先に立つ非人格化の一つの形である。津田真一はこれを「無名の如来/神としての釈迦」といっていた。 …
ヌミノーゼ的存在者とは、一般に下方の大地であるとは限らない。歴史的過去にあたる宇宙から我々の方へと再来するから、それを受け容れる、という形の強化再生の構想もあり、近代啓蒙思想(レッシングの人間再生論)とロシア宇宙主義(死者の回復)に端を発する、テクノオプチミズム・ニューエイジ・ニューソート・携挙思想・思弁的実在論における「人間の再開」「宇宙時代」、などの広義のキリスト教的構想群がこれを代表する。
『ニアヒューマン対耐空震』(2024)
九鬼周造から津田真一 ③
織田和明
織田和明の著書『九鬼周造の人間論 破綻と再建』(2025) は、循環論的に議論を突き詰めた伊藤とは異なる方法論…批評的態度…をもって九鬼思想の困難を解決する。
織田は、「ポンティニー講演」と「形而上学的時間」の両議論を比較し、そこに2つの明確な変化がみられると主張する。
(1)意志の位置付けの消去
二つの論文の第一の違いは、「形而上学的時間」では、「時間の観念と東洋における時間の反復」のように時間が個人の意志に帰属してはいないことである。 …
大宇宙年が個人の意志によって終結・生産されるという主張はこの論文では述べられない。「時間の絶対的根拠」を課題設定にした「形而上学的時間」であるが、時間の期限への問はこの論文では回避され、全てが潜性的な無限の水準で展開されている。 …
永遠回帰論は現実の世界の起源の問いよりもさらに一回り大きな世界全体を支える想像的な原理と考えるべきだろう。
織田和明『九鬼周造の人間論』(2025)
最後の引用文は伊藤著における議論「二重の多の二重の縮退」への接続をなおも可能にするものではある。だが織田は、「時間の反復による永遠の現在の成立」という九鬼の議論については、経験的な意義を持ち得る時間論としては、実質的に破綻しているものとして扱っている。
(2)オスカー・ベッカーの存在論への依存
では、九鬼の時間論をどのようなものとして読み込み直すのか。そこで織田は「形而上学的時間」におけるベッカーのパラ実在(準実存)論への言及に注目し、芸術的時間の哲学としての読み替えを図る。
九鬼はこのベッカーのパラ実存カテゴリーとしての被担性を自身の回帰的時間論と同一のものと考える。つまり、彼は「形而上学的時間」では永遠回帰の原理を、一人の人間が生み出したものではなく、我々を担う「運命」としてのマクロコスモス(=大宇宙)としている …
つまり人間が神のような全宇宙の生産者であると考えるのではなく、永遠回帰する大宇宙という運命に我々は担われているという想像を人間がしているという立場に切り替えたのである。
上記の論述が、九鬼はともかくベッカーの議論への接続として妥当であるかはやや微妙に思われるが(ベッカーにおけるパラ実存は想像に起点をおく原理ではなく、イデアの自己開展としての自然に由来する「現前存在」を取扱う原理の位置付けにあるから…)、織田の読みは我々の解釈に一つの出口を提供するものだ。
松本直樹
松本直樹「くり返す時・消えゆく時 西田幾多郎、九鬼周造、M・ハイデガーの時間論」(2020)は、九鬼と西田及びハイデガーの時間論を三点測量で比較した貴重な論考だ。
松本は、伊藤や織田の著書とはまた異なるアプローチ…論理構成ではなくその動機ないし帰結に着目する…を用いて議論に接近するという方法で、三者の議論の性格をキー概念ごとに比較し、九鬼の時間論(さらには文学論)への根底的な批判を試みている。
(1)垂直的脱自。三者はいずれも現在の垂直的構造を意識しているが、その動機が根本的に異なるという指摘。
ハイデガーによれば、死は水平に広がる時系列の、どの時点にも無制約に出現しうる唯一の可能性であるのだが、それはたんに、死が水平方向の直線上を自在に行ったり来たりすることができるということではなく、死がある意味、水平な時間の広がりのうちにはないような、むしろ、その広がりを垂直に「包み」つつ消去するような―ハイデガー自身の言い方では「撤回する」ような―否定性としてあることを意味する …
重要であるのは、 時間のこのような垂直の次元が、西田とハイデガーにあっては、時間そのものの不可逆性の基礎と解されていることである。
松本直樹「くり返す時・消えゆく時」(2020)
ただし、九鬼における「永遠の今」とは、単にその永遠性を寿ぐというものではなく、ある種の(イデアの自己開展に擬された)「延長された形態」を玩味しようという態度に帰結する。この点は後に松本も鋭く突いている。
(2)形相的単体性。伊藤の議論では、大宇宙年の無限の繰り返しという構成に伴い、その個別性が限りなく希薄化していく事態に対応する、いわば応急の概念装置として評価される概念だが、松本はその意義を逆方向から考察する。
偶然的・一回的な出来事を(その偶然性・一回性の実存的な重みを損なうことなく)必然化・永遠化しようとするとき、「回帰」の思想が現れる。…
要するに、九鬼の考えでは、そこではものごとが「多」として「個性」を稀薄にしていくことと、「一」として「重味」を増大させていくこととが矛盾しないような、そういう時間が回帰的時間なのである。

https://www.youtube.com/watch?v=FTzLUjZxeKY
(3)回帰的時間への論理的批判。小浜や伊藤をはじめ、多くの論者が因果律の同一律への一致という九鬼の論点を受け入れて議論を進めるのに対し、松本は敢えてそれをスキップし、九鬼の議論において回帰的時間を実際に可能ならしめている論拠を解体する。
大宇宙年の理論…この「仮定」を保全するためにこそ回帰的時間(時間そのもののくり返し)が想定されるのであって、このことはむしろ、九鬼が個体の同一性に関し、ライプニッツの「不可弁別即同一の原理」を厳格に踏襲していることを示す(回帰がつねに世界全体のそれとして理解されるのも、そのためであろう)。そのうえで、彼はこの原理から唯一、その「同一」が含意する「数的に一つ」という規定だけを外すのである。
九鬼はたんに、くり返しを考えるためには時間観念や同一律をこのように改変しなくてはならないと論じているだけだ、という。伊藤が二重の「多」や(物理理論などを援用して)二重の縮退という言葉で表現した事態が、限りなく根拠が希薄なものである実像が浮き彫りとなった。
(4)回帰的時間への哲学的批判。伊藤著の検討で筆者は、円環的時間の円環性を無用な仮定と述べたが、松本はその意味を、九鬼の時間論の直接的応用とされる文学論に及んで考察する。
松本は、回帰的時間で目指されるのは現在の深みへの直面が可能にする意思の働きそのものではなく、すでにその働きの「美的な享受」を構想して整えられた図式ではないか、と指摘する。
同じものがことさらに同じものとして提示され、そのような堆積がそのつど、卑俗な言い方をすれば「ちゃら」にされることで「回帰」のイメージが生み出される …
問題はむしろ、この種の詩作技術の行使や、音楽鑑賞における習慣的なふるまいが、そのような「ちゃら」感それ自体を志向しているように思われることにある。そこではすでに、 私たちの視線は、偶然的・一回的なものに端的に触れることから、それが偶然的・一回的であることそれ自体 (たとえば、 出来事の出来事「性」)を美的に享受することへと逸れてしまっているのではないだろうか。
松本はこのように述べる一方、別の論文で九鬼の「趣味的」な態度こそは人間の美的な意識状態の本質を示唆しているかもしれない、という見解を示しているが、本稿の趣旨と離れるので割愛する。
我々の理解を一旦整理する。
・九鬼によって美的な意思作用を付加された回帰的時間の思想は、一つの思想が対面すべき無や苦の濃度をそれこそ無にまで縮減したことで、思想の内容と形式にわたる二重の無意味性を呈することになった。
限りなく仮想的な観念が現実へ投影されるとき、その構想はなし崩し的に「可能的な苦の機構」を説明する原理へと転倒する。
・原始偶然を歴史の根源ではなく刻々の現在に比定したのは九鬼の工夫であったが、それはそもそも多重の間違いであっただろう。原初の意志、現法以前の意志、あるいは垂直的時間それ自体からくる意志、それらはいずれも我々の統制下にある意志ではない。
かりに「刻々のではない、永遠の現在だ」というなら、その意味を改めて問うだけだ。
オスカー・ベッカー
ここからは、ベッカーの理論に関してその美学的側面に注目した理解を試みる。
オスカー・ベッカーは、西欧の歴史的思考についてアウグスティヌスからハイデガーに至る系譜を意識して述べている。
古代世界全体は、ギリシア以前の古代東方にしても古典的古代にしても、天文学的根拠に基づいて、現象の循環を信じていた。「大いなる年」が過ぎ去るとすべてが回帰する。しかし、歴史的経緯の予測を許すような法則など天文学では成り立たないし、したがって事件の経過の繰り返しが入ってこない時に、初めて本当の時間が現れるのである。<自然-事象>からはっきり区別すべき歴史的<出来事>(Ereignisse)は、一回限りのものである。…
この還元不能の歴史性において初めて人間の存在は、その現-存在、その実存は成熟する。…
したがって我々がここで考えているのは、ヘーゲル的歴史の論理ではなく、(イデアの)実体の真理には依存しない、歴史における存在の真理である。…
歴史の余地不能性と、存在・存在者間の測りしれぬ隔たりという二つの事は、互いに相手を結論する。なぜならこの隔たりは、存在が存在者から推定されない時―つまり神託を拒否する時にのみ存在するからである。
ベッカー「プラトンのイデアと存在論的差異」(1963),『ピュタゴラスの現代性 数学とパラ実存』(1993)所収
ベッカーのパラ実存論の特徴は、精神と自然というシェリングの二元論を継承し、自然に由来する対象と経験…数学から芸術まで…を包括的に取扱う体系であることだ。それは直接的にはハイデガーの存在論の構成を借用して概念に双対構造を持たせ、かつプラトンのイデア観念の曖昧さを「存在」の鋭さに対置させて自然における「生成」の原理として取り込むという形で構想された。

ベッカーは、永遠に属する芸術と美的経験のはかなさの対応関係について、次のように分析している。
美しいものは、まれなもの、選り抜きのものである。それは、作品としては、「尖端を行くもの」と考えられる。
一本の道を辿って行けば自然に到達できるというわけではなく、そのためには飛躍が必要なことである。 …
美的対象は、「それ自体においては」到底「現実態」ではありえず、ただ潜勢力を持っているにすぎない。その潜在的なものが、美的体験においてはじめて現実的なものになり …
美的体験においては、「関心」は掻き立てられると同時に消されてしまう、しかも、現象的に与えられたものとして。 …
担われていることは、時間的には「現在」を意味する。と言っても、断じて通俗的時間の現在、つまり過去と未来という二つながら存在していない視界をともなった「いま」ではない。そうではなく、ただそれ自体のみで存在する、それ自体で完結し、それ自体で充分な、「永遠の現在」なのである。
「永遠の現在」は、過去にも未来にもかかわりがない。「永遠の現在」には視界はなく、「宇宙的に」それ自体の中に閉じこもっている。と言っても、「小宇宙的」というよりは、むしろ「大宇宙的」である。なぜなら、それが包含できないようなものは、一つもないからである。それは静止しているのではなく、「循環している。」(ここで、古代哲学での循環運動のことを考えていただきたい。)
「宿命的人間」は、このような「永遠に現在的」に担われている状態で生きている。
重荷という形や、不安をいとわない決断の中で捕えられるような形でではなく、まだ「通り過ぎて」はいないような形で、彼自身のものなのである。「通り過ぎて」という言葉は、彼にとっては「間抜けた言い草」である。彼は運命愛を知っている。
だが、芸術家はどうなのだろう。彼はどちらにも、つまり「宿命」の永遠の現在にも、歴史的現存在の既存的未来にも、かかわりを持っている。
イロニーの目つきは一切の上に浮かび漂い、一切を無にしてしまう。この二つの「行為」の統一は、決定的なものである。「一切の上に浮かび漂う」ものは、「永遠の現在」という時間形態を持ち、一切を「無にしてしまう」ものは、通俗的な時間の、それ自体において無である「いま」という時間形態を持つ。ただし、この「いま」の背後で、結局は、本来の(史的)時間の「瞬間」が不安、決断、「負い目のあること」(つまり、無であること)によって統一されている。
この逆説が美的なものそれ自体の逆説と同一のものであることを、指摘するのが精々である。
ベッカー『美のはかなさと芸術家の冒険性』(1929)
永遠の現在は、定義的にそれ自体で完足性を持つようなものであり、その美は死から生へのような飛躍に由来し、その享受は本質的に現象世界における興奮的・刹那性な瞬間として投射される。
永遠の現在それ自体にある種の非完了性を付託した九鬼の言説は、高橋の分析を援用するならば、次のような認知構造によって成り立っているといえる。
・「それ」が必然的に”瞬間的体験”として現象世界に投射されること。
・「それ」をふたたび享受しようとする意図(二次的な意志)を、「繰り返し」の構想による瞬間の延長それ自体によって構成すること。
つまり、九鬼の回帰的時間論の二重構造は、「美的な体験への意志から円環が生まれ、意志的体験への意志から延長が生まれる」、とまとめることができる。
ここまでの記事で取り上げた種々の議論を、あくまで理解の便宜のための仮設として、問題意識のスペクトラムと各々の志向するベクトルを考慮した見取り図によって整理することを考えてみる。
織田和明は、著作中で九鬼およびベッカーの議論に関連して、九鬼哲学全体の道行きを考慮しながら、次のような見取り図を提示している。


いっぽうで、筆者が理解の便宜のために描こうとする哲学のスペクトラムは、次の4つの論点を考慮して構成される。
・現勢的無限・種=伊藤の相依相関的自己完結的コスモス、円環という誤った表象、解釈ベクトルの対象
・潜勢的無限・類=無意識的現前、ナラティブ、物質的延長
・解釈ベクトル(回帰・実時間)/ 享受ベクトル(延長・再生・輪廻)
・同一律と因果律の同視、時間的多性(業無)と空間的多性(=宇宙年の繰り返しの実体・現前)の同視、…等々を意図して構想された議論を批判し、これらを再分割する。

津田真一
ここで、津田真一が登場する。
仏教学者・津田真一の後期(「開放系の仏教学」を標榜した1990年以降、あるいは『アーラヤ的世界とその神』(1998)の刊行以降)の行論全体の道行きを評価するにあたって、2008年以降の津田が「哲学」を標榜し始めたことは注意が向けられるべき…そしてこれまでの筆者が見逃していたと思われる…事実である。
この解釈において、私がそれを『法華経』における救済論の根拠をなすべき神話論的設定としたところの<願成就>ということが、再び、重要な意味、敢えていうならば(私は今に至るまでこの「哲学」という言葉を自分が書いたり喋ったりすることに対しては決して用いることはなかったのですが)哲学的な意味を持ってくるのです。
津田真一『反密教学』新版(2008) 序「『法華経』・願成就の哲学」
では、その「哲学」と仏教学との間に品階の差を生ぜしめている 条件は何かと申しますと、本日のお話の内容に合わせて申しますならば、それは他ならぬシェリングの有名な「問い」、カール・ヤスパースの『シェリング』(行人社、2006年)における那須政玄教授の訳によるなら 、
「なぜそもそも或るものが存在して、なぜ無は存在しないのか」
です。 ヤスパースの言う所によるなら、「パルメニデスによって考えられ、ライプニッツによって言及された」この問いを、シェリングは意識して「哲学することの根本の問い」とし、その「意味」を「彼の人生において繰り返し問うた」のです。
津田真一「四諦・十二因縁説の存在論的構制とその背後にあるもの 仏教思想の“哲学” 的叙述の試み」(2009)
「無が存在する」という矛盾的事態をE(=explosion)とおく。これが哲学の根底にある否定的事態であると考えよう。伊藤が事物の現勢化にあたって必要であると述べた「(すくなくとも)二重の縮退」とは、この"爆発"を無限で二回"割り算"をする操作に相当する。これによって一つの決定論的な宇宙が出現する(それが永劫回帰するかどうかは今は問わない)と仮定する。しかし、決定論的宇宙が哲学的にも思想的にもほぼ無意味であることはすぐに見て取れるだろう。そこで、先ほど提示した二つのベクトルを1回の"割り算"の操作に配当し、それぞれが1自由度を有した世界描像を創出すると考える。すると、我々が九鬼から出発して描いた見取り図は次のような下三角形となる。

思想における"自由度"は無根拠性、恣意性を許容し、ここに「解釈の場」が開かれる。しかし問題は"割り算"の性質についてだ。「解釈ベクトル」において、時間は歴史的事実の一通りしかない。ヘーゲルの円環とは、この歴史が自己整合的であることの要請である。
これはすなわち人間的な業が問題としては成立していない事態を意味する。宇宙が円環を成して回帰する時、すべての存在者はプラスマイナスゼロで帳尻を合わせて元の状態に復するのであるから、そこに業や苦の損得勘定はもとより成立する余地のない、無意味な観念である。
筆者が九鬼の回帰時間論において回帰それ自体が余計な仮定であると述べたのはこのようなことである。その理解の元は、津田が"円環という多分誤った表象"として述べていることにある。





