たまゆらの秘密 ⑧特異光学者

先出の小池壮彦『心霊写真』やジョン・ハーヴェイ『Photography and Spirit』(2007)等、あまたの概説書によれば、心霊写真の流行は写真技術の成立とほぼ同時に発生し(二重焼き技術の発生とメディア運用における排除)、軌を一にして発展してきたという。
一方で、現在「オーブ写真」について(超科学的現象として)語られる場合に心霊的な関心が強く打ち出されることは少なく、より概念的で曖昧模糊とした存在という印象もある。

 

大きくはオカルト現象に包括される「オーブ」概念であるが、本稿では、それにまつわる言説を「現象の場となるメディア」と「志向される説明原理とその主体」の2側面について、それぞれ3通りに類型化してみる。

ここに挙げた「オーブ言説」類型の歴史的な前後関係はどうなっているだろうか。
いうまでもなく「目視」や「伝聞」を媒介して成立する「神霊」「心霊」概念はいずれも古い歴史的経緯を持つものであるが、ことオーブ現象に関して言えば、直接には18世紀に登場し「生物磁気」「生気エネルギー」等と呼称された遠隔力的概念と、19世紀に登場した光化学技術「写真」が合流することで、概念の土台が作り出されたといえる。

 

今日、オーブが「心霊写真」の一種という意図で紹介されることはあまり一般的でない。
霊的存在の持つエネルギーを想定し、それが抽象的形状をとって結像する、という多段構造的解釈の上に立つ概念といえる。
分析美学に「写真の透明性テーゼ」という有名な論点があるが、オーブ写真は結像とされるものが存在するにも関わらず対象そのものの姿であるとは見なされない点で、透明性を強く拒否する事象ともいえる。

 

このような解釈的事象としてのオカルト写真の嚆矢は、20世紀に入って知られるようになった念写現象だろう。1911年に透視能力者・長尾郁子と東京帝大助教授の福来友吉の手で行われた世界初の念写実験は、現在に至るまで超科学界に多大な影響を残した。(直接的には仙台市高山市の福来研究所における「オーブ現象と医療」研究に引き継がれている)
また、1939に発見されたキルリアン写真も世界的に著名であり、より物理的な性格を有する「生体オーラ」概念の系譜として受け継がれている。
高級神霊の霊力の具現化として精神エネルギー療法や霊光現象を理論化する試みは、古くは浅野和三郎などに遡れるが、20世紀中葉の日本ではこれらは新宗教等の有力な布教手段として体系化されて大いに発展した。著名なところでは岡田茂吉世界救世教開祖)らの唱導した「霊線」概念や「身体霊光化」現象、五井昌久白光真宏会)が信仰対象として用いた「霊光写真」、岡田光玉(真光)の系譜で布教手段として多用される「手かざし診療」などが挙げられる。

たまゆらの秘密 ⑦つながり

幣立神宮の信徒で同社敷地のセミナー施設「世界平和道場」を長年運営している佐藤昭二は、春木秀映の高弟というべき人物の一人であり、「地球市民の会」(佐賀市)「日本私立学校給食協会」(山都町)などのNPOを主宰している。また、幣立神宮に心酔し同社門前に居を構えていた元金沢大助教授の仏教学者・西村見暁の後を継ぎ、「地球家族村」などの自然療法サークルを現地で主宰していた。

ガソリンスタンド事業などを手掛ける東光石油社長で、熊本ペトログラフ協会会員であったことから吉田著にもたびたび登場する石原靖也は、2014年の熊本市長選に出馬(落選)したり、草の根NPO組織「つながり(TSUNAGARI)」を主宰するなど政治志向の強い人物である。「つながり」は2016年の熊本地震でボランティア活動を行い、そのやり方が胡乱であるとしてネット上で非難を受けるなどの騒動も起こしていた。

米本佐和子を学生時代から慕っており、古代史相聞の会の会員であった考古学者・岡本真也人吉市の小学校教諭・尾方久生は、川辺川ダムの計画変更などの環境保護運動に深く関わっていた。

彼らの事跡を調べた筆者はかつて「人生の忘れ物を取りに行っているようだ」と感じたものだが、今では、彼らはそれぞれの信念を世に問うて突破を図ったのであり、しかもそれは継続しているのだろうと評価している。
 

マクロビオティック(正食)は、出口王仁三郎の弟子で岡田光玉とも交友のあった石塚左玄桜沢如一に端を発し、日本における菜食主義として今なお最大の影響力をもつ運動である。「玄米食」「身土不二」「地産地消」といった通俗的フレーズで現代の消費文化にも影響が深く、また神道新宗教の唱導した自然農法や霊気療法、政治思想の文脈における農本主義などにも広範な影響をもった思想運動であった。

幣立神宮とマクロビオティック運動の関係は長く、古くは春木秀映の著作『幣立神社略誌』(1951)や『御用邸の炎上と憲法』(1971)にも身土不二思想への言及がある。
婿で現宮司の春木伸哉も、マクロビ団体や関連する保守系教育団体の機関誌で自身の主宰するサークル「和洲学林」の活動を紹介しているほか、外郭施設「世界平和道場」主宰の佐藤昭二とともに給食問題を扱う市民団体に関与している。世界平和道場では、菅野祥江が主宰していた「蒼玄の会」など、多数のマクロビ団体がセミナーや合宿を行っており、吉田信啓の著作にもしばしば登場する。

「古代史相聞の会」主宰の米本佐和子と会員の松岡綾子は90年代にかけて、幣立神宮参道入口から車道を隔てた立地で民宿・自然食レストラン「火明之里」を運営していた。
その後、同地は人手に渡り、2002年頃にはマクロビカフェ「ほのあかり」、更に数年後には精進料理店「徳一」と変遷した。仏教色が唐突に感じるが、実のところ幣立神宮は継続的に仏教系の人脈を引き付けてきており、意外な現象という訳でもない。
現在は、やや離れた駐車場脇にパン屋「ヤマGEN」が営業しているが、これら歴代店舗はいずれもHP等でマクロビオティック身土不二を標榜しており、共通のツテを辿って同地に出店しているようである。

たまゆらの秘密 ⑥町おこし

熊本大名誉教授・尚絅短大学長を務めた著名な病理学者であった武内忠男は、熊本大の水俣病研究班を牽引し、1959年に水俣病有機水銀に起因することを立証したことで知られる。72~74年には水俣病認定委員会の会長として被害認定基準の策定にあたったが、73年に天草地方の症例疑いを「第三水俣病」として提起し、環境庁の専門家会議がこれを否定したことから委員会を辞任し、熊本大研究班も解散に追い込まれた。77年に国が定めた認定基準では、感覚障害・視野狭窄・運動失調などの複数の組み合わせを要件とする厳格化がなされ、紛争が続くことになった。
後年、熊本大名誉教授で生命体画像工学を専門とする入口紀男は、独自の文献調査に基づいて『聖バーソロミュー病院1865年の症候群』(2016)を著した。同著では、水銀中毒症状とされるものの病理学的位置付けについて武内に誤解があったとし、それが(武内自身が強く批判したところの)認定条件の不当な厳格化につながったと批判している。また、当座の仮称として武内が提案したとされる症例名「水俣病」が地域差別につながったとして、同病名の使用をやめるよう呼びかけている。

 

武内忠男の子息である武内一忠は、熊本市神水苑ホテル(現・マリエール神水苑)常務として勤務する傍ら、熊本ペトログラフ協会(後に熊本先史岩石文化研究会)代表として活動し、吉田信啓の著書にも度々登場した。
1996年の『尚絅短大紀要』には、一忠・忠男の連名で熊本・押戸山の巨石遺構と称されるものに関する研究論文が掲載されており、忠男は「熊本先史岩石文化研究会 名誉会長」に就いていたことがわかる。

同論文は、ペトログラフの図像分析等から巨石遺構を古代シュメール文明の影響下にあるものと比定する、吉田の見解と軌を一にする内容であった。同遺構は後にこの主張を丸呑みする形で観光地化された。

入口紀男はこれらに対してもWEB上で検証・批判を公にしている。
入口が武内忠男の発言をサーチする過程で押戸山巨石の件を知り得たのか、あるいは武内らの研究を町興しに利用する動きがそれ自体喧しかったのかは定かではないが、入口が武内父子の動向に相当の警戒をもっていたらしいことは市民団体「熊本アイルランド協会」のブログに武内一忠が寄稿して自説を展開した際、これに直ちにコメントを付して自身のページへと誘導していることからも伺える。

 

他方で、入口による同件への批判それ自体は非常に抑制的ともいえるものであったことも注目に値する。

巨石表面の筋目模様が数年で変化していること、落雷などによる着磁が普通に発生することなどを挙げてペトログラフの史料性に疑問を呈する一方で、「シュメル人、アーリア人ケルト人、ヘブライ人、ペルシャ人などが渡来したことを否定できない」等と、慎重をこえて譲歩的に思えることを述べたりもしている。

 

入口は市民活動「あまてらすプロジェクト」を展開する運動家の顔を持ち、自身のサイトでは行動指針として「尊王」「護憲」「核エネルギーの放棄」を掲げている。これらは実は批判対象たる幣立~吉田~武内ラインと遠くないセットとも思える。春木秀映は1946年の朝日新聞への投書で戦争放棄に賛意を表するなど、政治的には平和主義でもあるし、現宮司の春木伸哉も「条文は今のままでもよい」など独自の自主憲法論を口にするなどしている。
幣立神宮に限らず、古史古伝運動が国家神道に対する神社神道内部からの反発・反省・新正統主義の側面を持っていることは、そのサブカルチャー的側面と並んで理解される必要がある。

近代九州において、土地の神話と公害や疾病の記憶が重ね合わさるところには様々に入り組んだ捻れとも取れる知的位相が生じた。それはかつて日本最後の内戦から日本初の心霊写真を、不知火の街から千里眼能力者を生み出したように、種々の霊的ボルシェビズムを発火させるパッションでもあった。

たまゆらの秘密 ⑤タマユラ

『神字日文考』(1999)等に詳しいが、この日の撮影時、吉田が主宰する「日本ペトログラフ協会」(北九州市)の関連団体「熊本ペトログラフ協会」と、幣立神宮の信奉者である米本佐和子が主宰する熊本市の和歌研究会「古代史相聞の会」および、杉本浩の主宰する熊本市のスピリチュアル研究会「シャーリー・マクレーンの会」のメンバーが多数立ち会っていたという。
これらの団体のメンバーはもともとかなり重なっていたことから引き合わされたようだが、「シャーリー・マクレーンの会」は、盛期ニューエイジの伝道書の一つとして知られる『Dancing in the Light』等の記述から「善性の霊魂は特殊な波長の光で形成される泡状の光暈を纏っており、これに認識力を同調することで肉眼の視界中に見ることができる」という考えに立っていたようである。1993~94年にかけて、米本をはじめ「古代史相聞の会」会員や春木伸哉(禰宜、現宮司)の妻など、多くの幣立宮関係者が霊的なスポットで光の玉を見ることができるようになったと主張した。

 

この光暈を新古今集から取った言葉でタマユラ(玉響)と呼び始めたのが米本であったか、他の関係者であったかは不詳である。

吉田は、もともと『ムー』90年3月号等において、ペトログラフ発掘現場の写真に写り込んだフレア像を「金壺」と読んで喧伝しており、熊本県内の鎮守の森などで撮影した後方散乱光の玉ボケ像(オーブ)を、この目視できる「タマユラ」に結びつけたようだ。
1994年10月刊『たま』93号でこの現象を発表した吉田は、後の自著において、ペトログラフの霊力を証明する現象としてタマユラを繰り返し取り上げている。
吉田の考えるたまゆらは、神道的な「清き心に応えて顕現する高級神霊の徴」といった理解とはややニュアンスを異にするようである。上述の記事では「意識を持つ未知のエネルギー体」、『岩刻文字の黙示録』(1995)では「神霊エネルギー意識体」「宇宙人からのメッセージ」と、それ自身が意思的存在であることを強調している。これは後に触れる超科学的見方に近いものである。

 

その後、「たまゆら」は「新しい心霊写真」としてインターネットやオカルト番組を通じて認知を拡大したのち、中矢伸一や船井幸雄のメディアを通じて神道・スピリチュアルの文脈で再受容されていくことになり、吉田の「タマユラ」は衆目を集めることはなかった。

たまゆらの秘密 ④葦原に毒を流す

広島大学で英文学を専攻し、広島・福岡の高校で英語担当教諭として勤務していた吉田信啓は、本業のかたわら西日本民芸史の研究を行っていたが、1977年頃よりペトログラフ(岩石線刻)の研究に傾倒したとされる。
1982年、詳細は不明ながら、山口の新宗教新生佛教教団との関わりをきっかけに下関市彦島ペトログラフ調査に参加。歴史ジャーナリストの鈴木旭や川崎真治の知遇を得たことから、当時ブームとなっていた超古代史研究の世界で名を成していった。
山口県内を中心として、古史古伝ゆかりの地に数多くの「ペトログラフ遺跡」を発見したほか、英語力を生かして海外研究者とのコネクションも形成し「行動する世界的考古学者」を自称した。
1991年以降は竹内文書等に基づく日本人起源論、超古代史論の他、UFO、陰謀論等、往時の流行を盛り込んだ著作活動を展開する傍ら、郷土史研究の名目で調査プロジェクトを主宰し、行政やマスコミ、大学関係者へのコネクションをも拡大した。
加えて、90年には新生佛教教団を介し、日月神示の信奉者団体を主宰していた岡本三典(岡本天明の妻)に接近。麻賀多神社境内に「権現塚」などの遺構を発見し、自身の歴史観とリンクさせた主張を団体機関紙等で展開。
神道系古伝文書としてはマイナー級の存在であった日月神示は、これを機に岡本の個人セクト的な霊性運動から離れ、古史古伝サブカルチャーの流行の一角をなすようになっていった。

1992年8月22日、吉田は広島ホームテレビの取材班を引き連れて幣立神宮を訪れた。
著書にはこれが初訪であったの如く書かれているが、その真偽はさておき、TVロケ中に吉田は境内に散乱する岩石から多数のペトログラフ石を発見してみせ、大いにショーアップした。
また、幣立神宮の神体とされる阿比留文字の碑文を記した石版の裏側に、阿比留草文字で日文祝詞が記されていることを94年、神社氏子・米本佐和子および神社禰宜・春木伸哉と共同で突如発見。同年発行の隔月誌「たま」および著書『神字日文解』にて発表した。

以後の吉田はこれらの遺跡については著書内で繰り返し述べているが、麻賀多神社や幣立神宮の活動にはそれ以上の深入りをしていないと見られる。
日月神示関連は1991年に「日月神示 宇宙意志より人類へ最終の大預言!」を刊行した中矢伸一に、幣立神宮関連は1996年以降に同社と関わりを持ち、2000年の「五色神大祭」をプロデュースした江本勝らに、それぞれ主要アクターの座を譲る形になっている。
吉田の著作の文体はすべてルポルタージュであり、そこに登場する史論はさも知る人ぞ知る伝聞情報のごとく述べられているが、基本的には鈴木旭やそれに先行する武内裕(武田崇元)の著作を踏襲している。
内容としては、「ペトログラフ情報」に帰されるオカルト的な超古代文明論と、古史古伝界隈でメジャーな世界文明日本起源論を接ぎ木した形となっている(しかし、著作中では鈴木らの名にほぼ全く触れていない)。

鈴木や吉田らの著作と、バブル崩壊と前後して世間的に著名となった幣立社伝や日月神示との違いは何だっただろうか。後者の文書群が著名な古史古伝をそれぞれ独自にリファインした自己神格化を行う過程では、どちらかというと超古代王権説(皇統論)と、そこからひきだされる宗教的・平和的世界観への関心が主となっている。渡来ユダヤ人論(モーゼ来日説)などはその一挿話として扱われるのみで、超国家主義的な世界史観への傾きは相対的にいえば小さい(反国家神道的な姿勢も関係しているだろう)。そのため、冷戦終結やバブルを背景に気宇壮大な世界文明史観を打ち出していった鈴木・吉田世代の書き手にとっては、これらの文書の世界観はそのまま神輿として担ぐには足りないものがあっただろう。

もっとも、柞木田龍善・中矢伸一・江本勝など、90年代の重複する時期に幣立神宮に関わった他の著述家たちもすべて、幣立を素材として用いたに過ぎなかったともいえる。著作中で自ら展開した世界観に没入するにとどまり、吾郷清彦・佐治芳彦ラインのノンフィクション文芸路線を引き継いだ鈴木を例外として、ほとんど互いの存在に触れてはおらず、同社のオフィシャルな活動もまた、神主を継承した春木伸哉が主導するところになっていく。興味深い現象である。

それはさておき、前述した92年の幣立ペトログラフ発見劇は上記とは別に、いくつか数奇な文脈を生み出すことになった。

たまゆらの秘密 ③青年地球誕生

秀映の幣立神話の集大成といえる『青年地球誕生』刊行を境に、幣立神宮の立場は―しかし同書の反響によるものではなく―変容してゆく。

秀映本人に代わる野心的な心霊家やライターが同社を訪れ、その「知られざる伝承」を独自にリサーチして多様なストーリーを展開するという流れが生じ、弊立神宮は知る人ぞ知るオカルト神道の聖地の様相を呈していった。
それまでも、霊能者や審神者を招いて社伝普及に努めたり、一般著名人の参詣をアピールして知名度の向上を図ったりといった活動は盛んであったが、思想的主体はあくまで春木秀映のものであった。だが、1973年を境に彼は後景に退き、90年代に婿で禰宜(現宮司)の春木伸哉が『青年地球誕生』を再編して共著の形で再刊するまでは、同社自身による広宣活動はほとんど行われなくなる。

 

1973年に幣立神宮を訪れた作家の柞木田龍善は、リモート・ビューイングを行う霊能者かつ同社の信奉者の一人であった吉田信正に心酔して共に調査を重ね、1986年に『安徳天皇と日の宮幣立神宮』を上梓した。(87、95年に追補版)

同書は、秀映の『青年地球誕生』に示唆を受けつつも直接これを継承することはなく、全く独自といえる歴史を提示する。
例えば、秀映によれば、同社が長きにわたって無名の郷社に甘んじてきた理由は以下のような事情にある:

応神天皇の時代、神功皇后武内宿禰落胤である「天君公」が同社を本拠とし、ここで追討を受けた(高天原の乱)こと

・加えて、江戸時代にある藩主により健磐龍命への祭神替えがなされ、阿蘇神社の末社とされたこと(以上のストーリー展開は竹内文書の影響が濃厚である)。
一方、柞木田は源氏に追討された安徳天皇が同地に落ち延び、幣立社末社とされる近隣の小社(山宮神社)に葬られたと主張し、独自の発掘調査を実施。鎌倉幕府の目を欺くために幣立社は隠れ宮とされたと主張した。

 

安徳天皇と日の宮幣立神宮』にはもう一つ些細だが興味深い記述がある。同社の境内にて撮影した写真に現れたとする縞状のゴーストを「龍神」として紹介していることだ。

スピリチュアリズムと霊光写真のかかわりは岡田茂吉の時代からよく知られたものだが、同書は心霊写真にうつる霊的な実体に関心を向けることはない。端的に「地場の神霊」の存在徴候として象徴的に取り扱う。これは現在の神道スピリチュアリズムの主流ともいえる態度であり、それをかなり早い時期に示したものであると考えられる。

 

小池壮彦『心霊写真』(2000)によれば、1970年代前半からメディアにおける心霊写真の扱いが飛躍的に増加したという。当時のブームはそのまま現在まで勢いを大きく減じずに継続するものとなった。だが、人の形をとらず、意思的な超自然存在のコントロールをも想起させない「単なる失敗した撮像」を、そのまま「霊的存在の徴」として扱うようになったのは80年代後半からであったという。

たまゆらの秘密 ②阿蘇高天原

幣立神社(現・幣立神宮)の宮司家に長男として生まれた春木茂(のちに秀映と改名)は、海軍兵学校や高等文官試験を受験するなど政界への関心が強い人物であったが、宮司の父、さらに跡目であった弟の死により、1934年に幣立神社の宮司職を継ぐこととなった。
秀映はただちに郷社の社格にあった幣立神社の格上げ運動に取りかかり、井沢モト、成田とう、布田トミ等、九州で名の知られた霊能者を次々と同社へ招聘した。その傍らで『中外日報』への寄稿やパンフレット『天業の恢弘と幣立神宮』(1938)出版などの文壇活動を精力的に行い、同社の知名度を近隣の高千穂神社らと比肩させるべく権威付けを図った。その協力者の一人でもあった吾郷清彦は、同社編『阿蘇高天原』(1957)に寄稿した文章のなかで、秀映の孤軍奮闘ぶりをやや突きはなした調子で記録している。

 

秀映は、のちに確立する「幣立社神話」のアイデアを霊能者たちの示唆のほか、当時すでに世に知られて信奉者を集めていた古史古伝文書、下っては60年代以降にマスメディアと新新宗教の手で一般に流布したオカルティズム言説からも敏感に摂取していたと考えられる。
例えば、同社の社宝とされた火の玉・水の玉、五色神面には、宮下文書・竹内文書などにみられる渡来ユダヤ人説や五大人種説に直接想をとった由来譚が附与された。
また、秀映の著作に断片的にみられる宇宙人や竜人文明への言及からは、記紀や上記(ウエツフミ)の記述(トヨタマヒメ・タマヨリヒメ・ウガヤ王朝、天磐船等)と欧米の神秘学やSF作家の手になる爬虫類神話論とを結び付けて説いた岡田光玉(真光開祖)らの孫引き的な影響を見て取れる。
より簡潔に語るなら、岡田や春木を含む宗教家たちをまとめて、60―70年代マスメディアに展開したオカルト言説圏の周縁、あるいは便乗者として処理することができるだろう。

これらのオカルト言説を咀嚼吸収する過程で、幣立神社独自の古代史解釈を説く複数の〈社伝〉が戦前戦後を通じて編纂され、同社の柱となっていった。

 

秀映の主著『青年地球誕生』(1973刊・1992再版、1999抄録・改編版)に掲載された『高天原縁起上巻』は、天照大神の幣立宮遷座を語る『幣立宮縁起書』の後に置かれている。その内容は、記紀のあらすじ(国産みから天孫降臨まで)に同社近辺の地名を盛り込む形で、大門能主神・天御中主神天照大神がいずれも幣立宮に鎮座するに至ったとする神話に仕立てたものである。内容的には、宮司就任に前後して『幣立宮縁起書』を「発見」・発表した直後(1930年代後半)に、これを増広する形で書かれたものと考えられる。
「江戸時代に書写されたものを神代文字で解読した」と強引な曰く付けがなされ内容も簡素な『幣立宮縁起書』とは異なり、『高天原縁起』は同社所伝の経緯が何も述べられていないことや「日本政道」「国体之曇」などの言葉遣いからみても秀映の手になるものなのが明らかな代物だが、テキストが漢文で書かれているという一事によって若干の幻惑効果を発揮していたようだ。例えば、古史古伝ウォッチャーとして知られる原田実は著書『偽書が描いた日本の超古代史』(2018)で「実際に平安時代に書かれたとは考えにくい」とするに留めており、他の古史古伝文書と同時期のもの(江戸時代中期~昭和初期)という漠然とした把握をしていたようだ。

 

高天原縁起』冒頭では「神代七世」「天神七代」「地神五代」として聖書のように系図が置かれ、記紀神世七代からオオトノヂツノグヒを格上げする形で「神代七世」に配置し、オオトノヂ=大門能主大神(後の大宇宙大和神)を宇宙最高神としている。『先代旧事本紀』『上記』を嚆矢とする古史古伝のバリエーションに属しつつ、それなりに独自の神学を盛り込んだ内容といえる。
なお、『高天原縁起』には中下巻が焚書され逸失したという設定も附記されてあり、秀映としては書き継ぐことも考えていたようだが、以後の展開は「口碑『幣立神話』」という形式でまったく自由に陳述され、これを自在に運用することで前述の『青年地球誕生』がものされることになった。

時は1970年代前半、吾郷清彦や鈴木貞一の宮下文書本を中心として、出版界は第二次古史古伝ブームというべき状況にあり、まさに時流に乗った刊行ではあった。