たまゆらの秘密 ③青年地球誕生

秀映の幣立神話の集大成といえる『青年地球誕生』刊行を境に、幣立神宮の立場は―しかし同書の反響によるものではなく―変容してゆく。

秀映本人に代わる野心的な心霊家やライターが同社を訪れ、その「知られざる伝承」を独自にリサーチして多様なストーリーを展開するという流れが生じ、弊立神宮は知る人ぞ知るオカルト神道の聖地の様相を呈していった。
それまでも、霊能者や審神者を招いて社伝普及に努めたり、一般著名人の参詣をアピールして知名度の向上を図ったりといった活動は盛んであったが、思想的主体はあくまで春木秀映のものであった。だが、1973年を境に彼は後景に退き、90年代に婿で禰宜(現宮司)の春木伸哉が『青年地球誕生』を再編して共著の形で再刊するまでは、同社自身による広宣活動はほとんど行われなくなる。

 

1973年に幣立神宮を訪れた作家の柞木田龍善は、リモート・ビューイングを行う霊能者かつ同社の信奉者の一人であった吉田信正に心酔して共に調査を重ね、1986年に『安徳天皇と日の宮幣立神宮』を上梓した。(87、95年に追補版)

同書は、秀映の『青年地球誕生』に示唆を受けつつも直接これを継承することはなく、全く独自といえる歴史を提示する。
例えば、秀映によれば、同社が長きにわたって無名の郷社に甘んじてきた理由は以下のような事情にある:

応神天皇の時代、神功皇后武内宿禰落胤である「天君公」が同社を本拠とし、ここで追討を受けた(高天原の乱)こと

・加えて、江戸時代にある藩主により健磐龍命への祭神替えがなされ、阿蘇神社の末社とされたこと(以上のストーリー展開は竹内文書の影響が濃厚である)。
一方、柞木田は源氏に追討された安徳天皇が同地に落ち延び、幣立社末社とされる近隣の小社(山宮神社)に葬られたと主張し、独自の発掘調査を実施。鎌倉幕府の目を欺くために幣立社は隠れ宮とされたと主張した。

 

安徳天皇と日の宮幣立神宮』にはもう一つ些細だが興味深い記述がある。同社の境内にて撮影した写真に現れたとする縞状のゴーストを「龍神」として紹介していることだ。

スピリチュアリズムと霊光写真のかかわりは岡田茂吉の時代からよく知られたものだが、同書は心霊写真にうつる霊的な実体に関心を向けることはない。端的に「地場の神霊」の存在徴候として象徴的に取り扱う。これは現在の神道スピリチュアリズムの主流ともいえる態度であり、それをかなり早い時期に示したものであると考えられる。

 

小池壮彦『心霊写真』(2000)によれば、1970年代前半からメディアにおける心霊写真の扱いが飛躍的に増加したという。当時のブームはそのまま現在まで勢いを大きく減じずに継続するものとなった。だが、人の形をとらず、意思的な超自然存在のコントロールをも想起させない「単なる失敗した撮像」を、そのまま「霊的存在の徴」として扱うようになったのは80年代後半からであったという。