たまゆらの秘密 ④葦原に毒を流す

広島大学で英文学を専攻し、広島・福岡の高校で英語担当教諭として勤務していた吉田信啓は、本業のかたわら西日本民芸史の研究を行っていたが、1977年頃よりペトログラフ(岩石線刻)の研究に傾倒したとされる。
1982年、詳細は不明ながら、山口の新宗教新生佛教教団との関わりをきっかけに下関市彦島ペトログラフ調査に参加。歴史ジャーナリストの鈴木旭や川崎真治の知遇を得たことから、当時ブームとなっていた超古代史研究の世界で名を成していった。
山口県内を中心として、古史古伝ゆかりの地に数多くの「ペトログラフ遺跡」を発見したほか、英語力を生かして海外研究者とのコネクションも形成し「行動する世界的考古学者」を自称した。
1991年以降は竹内文書等に基づく日本人起源論、超古代史論の他、UFO、陰謀論等、往時の流行を盛り込んだ著作活動を展開する傍ら、郷土史研究の名目で調査プロジェクトを主宰し、行政やマスコミ、大学関係者へのコネクションをも拡大した。
加えて、90年には新生佛教教団を介し、日月神示の信奉者団体を主宰していた岡本三典(岡本天明の妻)に接近。麻賀多神社境内に「権現塚」などの遺構を発見し、自身の歴史観とリンクさせた主張を団体機関紙等で展開。
神道系古伝文書としてはマイナー級の存在であった日月神示は、これを機に岡本の個人セクト的な霊性運動から離れ、古史古伝サブカルチャーの流行の一角をなすようになっていった。

1992年8月22日、吉田は広島ホームテレビの取材班を引き連れて幣立神宮を訪れた。
著書にはこれが初訪であったの如く書かれているが、その真偽はさておき、TVロケ中に吉田は境内に散乱する岩石から多数のペトログラフ石を発見してみせ、大いにショーアップした。
また、幣立神宮の神体とされる阿比留文字の碑文を記した石版の裏側に、阿比留草文字で日文祝詞が記されていることを94年、神社氏子・米本佐和子および神社禰宜・春木伸哉と共同で突如発見。同年発行の隔月誌「たま」および著書『神字日文解』にて発表した。

以後の吉田はこれらの遺跡については著書内で繰り返し述べているが、麻賀多神社や幣立神宮の活動にはそれ以上の深入りをしていないと見られる。
日月神示関連は1991年に「日月神示 宇宙意志より人類へ最終の大預言!」を刊行した中矢伸一に、幣立神宮関連は1996年以降に同社と関わりを持ち、2000年の「五色神大祭」をプロデュースした江本勝らに、それぞれ主要アクターの座を譲る形になっている。
吉田の著作の文体はすべてルポルタージュであり、そこに登場する史論はさも知る人ぞ知る伝聞情報のごとく述べられているが、基本的には鈴木旭やそれに先行する武内裕(武田崇元)の著作を踏襲している。
内容としては、「ペトログラフ情報」に帰されるオカルト的な超古代文明論と、古史古伝界隈でメジャーな世界文明日本起源論を接ぎ木した形となっている(しかし、著作中では鈴木らの名にほぼ全く触れていない)。

鈴木や吉田らの著作と、バブル崩壊と前後して世間的に著名となった幣立社伝や日月神示との違いは何だっただろうか。後者の文書群が著名な古史古伝をそれぞれ独自にリファインした自己神格化を行う過程では、どちらかというと超古代王権説(皇統論)と、そこからひきだされる宗教的・平和的世界観への関心が主となっている。渡来ユダヤ人論(モーゼ来日説)などはその一挿話として扱われるのみで、超国家主義的な世界史観への傾きは相対的にいえば小さい(反国家神道的な姿勢も関係しているだろう)。そのため、冷戦終結やバブルを背景に気宇壮大な世界文明史観を打ち出していった鈴木・吉田世代の書き手にとっては、これらの文書の世界観はそのまま神輿として担ぐには足りないものがあっただろう。

もっとも、柞木田龍善・中矢伸一・江本勝など、90年代の重複する時期に幣立神宮に関わった他の著述家たちもすべて、幣立を素材として用いたに過ぎなかったともいえる。著作中で自ら展開した世界観に没入するにとどまり、吾郷清彦・佐治芳彦ラインのノンフィクション文芸路線を引き継いだ鈴木を例外として、ほとんど互いの存在に触れてはおらず、同社のオフィシャルな活動もまた、神主を継承した春木伸哉が主導するところになっていく。興味深い現象である。

それはさておき、前述した92年の幣立ペトログラフ発見劇は上記とは別に、いくつか数奇な文脈を生み出すことになった。